嘗て掲示板形式で運営していた「参加型兵法家人名事典」。
閲覧者様からの投稿も途絶えて久しく、掲示板も無法地帯と化していた為、掲示板を閉鎖しましたが、折角皆様が御書き下さった人名事典ですので、過去ログを残しておきます。
只、惜しむらくは記事が余りに古い為、掲示板に過去ログが断片的にしか残って居りませんでした。
記事が相前後し、抜けも生じて居る事を御了承下さい。







[24] 高田又兵衛 投稿者:洒落頭 投稿日:2002/06/23(Sun) 21:20

 1589〜1671。伊賀上野の生まれ。宝蔵院胤栄の弟子、中村
直政に師事。後に宝蔵院流高田派という自分の流派を立てる。江戸城
内で槍術を上覧したこともある。
 大坂の陣で豊臣方として参戦
し、敗北。自身は生き延びるが、戦後は浪人として町道場を開いてい
た。そこを小倉藩主小笠原忠政に抱えられ(俸給千石)、小倉に移り
住む。同地で没する。
 槍は殺傷能力の高い武器だが、相手の手
を狙うのが基本戦術。寺院で生まれた流派のためか「人を生かすため
の槍」として使いこなすのが理想とされた。また、槍は約2.7mと
比較的短く、器用に使うことを主眼においている。その特徴は「突け
ば槍 薙げば薙刀 ひけば鎌 とにもかくにも 外れあらまし」と謳
われている。
 紀州藩に赴いたときには、武芸好きの徳川頼宣に
槍術を披露するように頼まれている。熱望に応え、頼宣の近臣をあっ
さり負かしている。頼宣はあまりのあっけなさにもう一試合所望した
が、ここで又兵衛「それがしの仕える小笠原家には死んだ者と槍を合
わせる習いはありませぬ」と一蹴した。
 また、寛永11年(1
634)には、尾張で宮本武蔵と対決しているが、敗れている。


 映画「稲妻峠の決闘」(1962)は彼を題材としている。主
演(又兵衛)は市川右太衛門。

 参考文献 あちこちの百科
事典、人名辞典
      あちこちのホームページ
   
   信長の野望 天翔記事典(光栄)←(爆)


[25] Re: 高田又兵衛 投稿者:須保孫右衛門角長 投稿日:2002/06/24(Mon) 01:03

小説等にも紹介されている話であるが、又兵衛が小笠原藩の使者として紀州徳川家の上屋敷に訪れた時、藩主頼宣の所望で、家中の槍術家と試合をする事になった。
一人目はあっさり打ち負かし、二人目に出てきたのが指南役の大島雲平吉綱(大島流の祖)。
又兵衛は、
「身共は使者として罷り越した身。それを思いがけず御意を蒙るゆへ、拠所無く試合を仕った次第。この上再三の御意は迷惑千万に御座れ共、斯くなる上は紀州の鎗、何本なりとも御相手仕り申そう。」
と言ったという。
試合が進む裡、大島の鎗が又兵衛の袖を突き抜けたので、
「それ、当り申したぞ。」
と、大島。
それを聞くなり、又兵衛はやにわに脇差を抜いて、おのれの袖に突き刺し、
「たわけ!袖を突いて、人が死ぬるか!」
と大喝した。
それを見ていた紀州大納言頼宣は、俄かに蒼白となり、座を蹴って奥へ引っ込んでしまった。
立場を悪くした又兵衛であったが、其の場に居た家老の安藤帯刀のとりなしにより、事無きを得たという。
勝負に妥協せぬ、又兵衛は武士であった。(なんちゃって)


[26] 高田郡兵衛 投稿者:洒落頭 投稿日:2002/07/13(Sat) 16:59

高田又兵衛の孫と伝えられる。もちろん彼も槍の使い手。元禄年間の人で赤
穂藩所属だが、討ち入りには不参加。詳しくはこのホームページの「仇討ち
」の項目「赤穂事件脱盟組」を参照のこと。


[27] Re: 高田郡兵衛 投稿者:須保孫右衛門角長 投稿日:2002/07/15(Mon) 01:33

ありゃありゃ、宣伝迄して下さるとは・・・(感涙)。
とかなんとか言って、實はちゃんとコンテンツに目を通して下さってたのが一番嬉しかったりして(^^)。
どうでもいいですが、郡兵衛が又兵衛の孫だと、私はコンテンツ書いてて全然気が付きませんでした(T_T)。


[15] みんなで語ろう「宮本武蔵」 投稿者:雲の絶間 投稿日:2002/05/12(Sun) 13:50

吉川英治氏が作った武蔵ではなく、史実の武蔵のエピソードなどで、剣豪の中の有名人、宮本武蔵の真実に近づくことはできないでしょうか。


[23] Re: みんなで語ろう「宮本武蔵」 投稿者:与四郎 投稿日:2002/05/14(Tue) 21:47

佐々木小次郎と巌流島で決闘した武蔵。(決闘自体嘘っぽい気がしますが)
一条のぼり?くだり?松の吉岡なんとか一門と戦った武蔵。
風呂に入らなかった武蔵。
しんめんなんとかの子の武蔵。
一度も負けた事がない武蔵。
などなど、いろんな武蔵が自分の中にあります。
みんなが好きだからいろんな武蔵がでてきちゃったのかなーと思ってみたりしますが。
武蔵って言えば誰でもある程度知ってるみたいだし。
うーん,奥が深いぞ武蔵。


[16] Re: みんなで語ろう「宮本武蔵」 投稿者:与四郎 投稿日:2002/05/12(Sun) 16:01

武蔵は一体何人いたんだろう?
いろんな武蔵がごちゃ混ぜになっているような気がします。
武蔵1はどこの誰で何をした、とかで整理してまとめたものってないのでしょうか?


[19] Re^2: みんなで語ろう「宮本武蔵」 投稿者:法城寺 投稿日:2002/05/14(Tue) 17:49

> 武蔵は一体何人いたんだろう?
> いろんな武蔵がごちゃ混ぜになっているような気がします。


細川家にて庇護され(洒落みたいだな)晩年を全うしたのが真実武蔵であることに間違いはないと思います。武蔵複数説があるのは、同時代に武蔵と言う名前の武芸者が他にいたからでしょう。宮本武蔵を騙ったのではなく、真実そういう名前だったのではないでしょうか。
どうも武蔵にはとても同一人物とは考えにくいエピソードが多々あり、これは全然関係のない他人の武蔵像が勝手に人づてに語られ同人化したと私は考えてます。
武蔵の指料は何かで、「伯耆安綱」だ、いやいや「上総介兼重」だとか言い張る人がいますが、それは武蔵の長い一生の中でたまたまそれを指料としているのを見た当時の人間の記録でしょう。武蔵だって着たきり雀、刀一生一振りなんて訳ありえません。指料でさえ数説あるわけです。同じように武蔵像が入り乱れているのは、武蔵という名の武芸者が確かに何人か存在し、一番有名な宮本武蔵に集約されて伝わったと考える方が自然ではないでしょうか、松花堂弁当・・・?


[20] Re^3: みんなで語ろう「宮本武蔵」 投稿者:法城寺 投稿日:2002/05/14(Tue) 17:55

> > 武蔵は一体何人いたんだろう?

肝心の何人かを忘れておった。
これは武蔵という名前を解きほぐすと「たけぞう」から取った説が一般的です。となるとけっこう全国に「たけぞう」という名は多かったでしょうし、また現在の東京・埼玉は武蔵国ですから、故郷にちなんでつける場合もそうとうあったでしょう。
というわけではっきりとは判らないというのが私の答えです、ちゃんちゃん、ちゃんボンカレー、あらへん(何人の人がこれをわかってくれるかな?)


[21] Re^4: ちゃんボンカレー、あらへん 投稿者:タノQ 投稿日:2002/05/14(Tue) 20:12

ボンカレーの件は判りますが武蔵複数説に就いては一切判りまへん

此れは憶測の域を出ませんが現代でも然うであるように当時も著名人を騙って幅を利かせようとか旨い話にアリツこうとか考える不埒な輩に事欠かなんだやも知れませんし一方武蔵自身混乱を来した多重人格者で実際に或方此方で辻褄の合わぬ矛盾の致し放題であったやも知れません


[17] Re^2: みんなで語ろう「宮本武蔵」 投稿者:須保孫右衛門角長 投稿日:2002/05/12(Sun) 23:13

う〜ん、珍しく私も書こうかなんと思って来てみましたら、むじゅかしい問題を提起なさる・・・。
私の手元の資料ですと、武蔵が何人か居たという話は載っておりません喃。
白土三平の漫画には、「偽武蔵」が出てきますが・・・。
ああ、くだらん事を書いてしまった。


[22] Re^3: 武蔵エピソード 投稿者:タノQ 投稿日:2002/05/14(Tue) 20:45

@途或る藩に食客として滞在中であった武蔵…勇名を馳せる其腕前に就いて仲間内で議論の昂じた藩勤めの料理人がイザ試さんと通りすがりに撃掛った処、一刀の下に斬捨てられた…斯の逸話は周五郎に依って面白可笑しう短編化されました(^^)

Aまた途或る藩に食客として滞在中であった武蔵…酒席で藩重席連と談笑の最中、一人がフト「厳流佐々木との果し合いに於いて貴公は鉢巻を両断されたそうですが矢張り敗れても流石は佐々木ですな」とか酔いに任せて云うた途端気色ばんだ武蔵ァ「完全に見切りましたので一切傷を負うて居りません存分に御検証下され」なんて額を突出し、鼻白んで「解りました」と誤魔化す御相手を更に引留め「宜敷く御検証下され」て強要した、らしい

B厳流佐々木との果し合いの結果、勝ったのは確かに武蔵でしたが決闘後に蘇生した佐々木小次郎を予ての約定を違えて隠れ潜んで居た複数の武蔵門人共が寄って集かって其場で撃殺した…佐々木側は約定通り一人の門人も同行して居らなんだにも関らず…

因みにBは信憑性高いらしう御座います


[18] Re^3: みんなで語ろう「宮本武蔵」 投稿者:赤目 投稿日:2002/05/13(Mon) 18:52

> う〜ん、珍しく私も書こうかなんと思って来てみましたら、むじゅかしい問題を提起なさる・・・。
> 私の手元の資料ですと、武蔵が何人か居たという話は載っておりません喃。
> 白土三平の漫画には、「偽武蔵」が出てきますが・・・。
> ああ、くだらん事を書いてしまった。

久し振りに除いたら、面白い話しが沢山有りますね、
白土三平の「忍者武芸帖」でしたっけ、アノ話は・・・
現在のスパイでも、有名人に化けるは一番有効とされています。
身分の高い人間に接触できる、イベントをいじくれば、何処にもいけるし、
怪しまれない、だから、ハリウッドは諜報組織として、
ペンタゴンの下部組織で作られました。
日本の東映もそうですし、何処でも一緒ですね、
この場合は有名人に化けると言うより、
有名人が化けると言う事になりますが・・・
昔から、虚無僧、山伏、僧侶(モロ宗教関係ですね)
商人、放下師(手品師、猿回し、軽業師)
猿楽師(神楽など、踊り歌舞いの事の総称)
これらも境内利用するから、つまり、宗教関係者に知り合い無いと・・・
後、武芸者、農民と言われますが、これは「無形の物」
と呼びました。これを「七化け」として定番ですが、
忍術書では「七方出で立ちの事」と有ります。
「風姿花伝」など、秘伝書を読まれた方は分かると思いますが、
秘伝書は必ず、口伝があり、それを知らないと本当の意味、
その言葉のキーワードが分からず、読み間違える様にして有ります。
人に知られたく無く、自分の子孫に残すのだから、当然です。
これで考えるとと無形の物は、
武士や農民なら、如何考えても怪しいですよね、
これは逆に有名なら、否、有名で無いと怪しいです。
者を物としている文章も怪しい、有名と言うのは、
無形の物ですが・・・なんか私は引っ掛かるのですが、
皆さん、如何思います。宮本武蔵で忍者の設定、オモシロそうですが、
チョット、話自分の好きな分野に曲げすぎなような・・・


[14] 疋田文吾 投稿者:タノQ 投稿日:2002/04/12(Fri) 04:19

疋田文吾郎景忠(天文六年丁酉〜慶長十年乙巳)
グレゴリオ暦1537〜1605

母方の叔父である上泉武蔵守信綱の元で新陰流を研鑚し永碌六年癸亥(1563)には長野家中として叔父信綱、同門の神後伊豆守と共に出陣、甲斐の武田軍を相手に箕輪城搦手(裏門)を守る
城主業盛が自刃して落城の後は斬り逃れ暫し流転、やがて信綱一行は大和・宝蔵院に至る

※此辺りは年号的にチトおかしい、武田軍の箕輪総攻撃は永碌九年丙寅(1566)だった筈だが少なくとも宗厳や胤栄に印可を授けた永碌八年乙丑(1565)迄には信綱一行、箕輪から遥か遠い大和に居ないと辻褄が合わない…

兎も角、伊勢の国司・北畠具教の紹介に依り宝蔵院を訪ねた新陰一門は覚禅坊胤栄の立会の基、当時五畿内随一の遣い手と謳われた柳生宗厳の挑戦を受け、作法として門弟を代表した疋田文吾が試合うた処、宗厳の構えを一瞥した文吾「其は悪う御座る」一声掛けた途端に勝負が決し宗厳は瞬く間に一本獲られ又獲られ続いて獲られ完全敗北を喫してしまう
弟子にすら全く歯が立たない段違いの妙技に感銘を受けた宗厳は直ちに上泉信綱門下となり(恐らく同時期に胤栄も入門)後に新陰道統を継ぐ者に育った

恐らく相弟子達の中でも最強にして師匠の甥でもあった疋田文吾、何故か道統を継げず叔父信綱が柳生の庄滞在中に放れ諸国を剣一筋に回遊を続けた
伝承に拠ると或時、家康に剣法指南役を求められた信綱が文吾と宗厳を紹介し各々剣技を披露させた処、家康は文吾を指して「古今の上手、名人為れど所詮は匹夫の剣」と評価し指南役には宗厳を求めたと云う

匹夫の剣処か後の文吾には織田信忠や豊臣秀次等々が入門し、細川家にも高禄で仕官して居た時期は在るのだが、色々考え合せると信綱が後継に宗厳を選び柳生の庄を放れた経緯、一剣を頼んで定住を嫌うかの如き放浪癖、立合の際「其は悪う御座る」一声で撃込む衒い、無敵の強さ…家康のような治世者から観れば正しく野人と映ったものやも知れない

仕官も道統も拘らず一途に新陰と師発明の竹刀普及に携る旅を続けて各地で転戦し不敗、最期は旅の途上、大阪城内で客死した疋田文吾
相弟子の柳生宗厳、覚禅坊胤栄、丸目蔵人達に比ぶれば今一つ有名ではないが非常に魅力的、且つ浪漫を感じる次第である


[9] 齋藤一 投稿者:和泉守 投稿日:2002/02/27(Wed) 22:21

「ツナギ」ですが・・・・

はたして剣豪か? では剣豪ではないか?
判断に迷いますが、私は強い方だと思うので一応剣豪として取り上げました。

齋藤 一(さいとう はじめ)
本名 山口 一
改名 山口一[本名]、齋藤一[新選組時代]、山口次郎(または山口二郎)[会津戦争時代]、一戸伝八[会津敗戦〜斗南直前時代]、藤田五郎[斗南以降]
天保15年(1844)生まれ
播磨出身の浪人(らしい)。父は明石藩の足軽か?父親が明石藩を出奔し、江戸にて御家人株を購入。
流儀 無外流(無外流・・開祖は都治月丹。その元は山口一刀流。無外流の主要な業は「逆袈裟斬り」「突き」)
   太子流もやったらしい。
[略歴]
当初、江戸に住んでいたが何らかの理由により旗本を斬ってしまったため江戸から逐電し、京都の吉田某の道場にて師範代を務めていた。その後京都における新選組隊士に応募し文久三年(1862)新選組入隊。副長助勤三番隊隊長。
元治元年(1864)池田屋事変にて活躍。この戦闘にて新選組側では1名死亡、藤堂平助を含む3名が重傷であった。齋藤は後から加勢。齋藤は無傷。
隆盛を極めた新選組も鳥羽伏見の敗戦を経て、朝敵として討伐された。
江戸に戻った新選組は甲陽鎮撫隊を編成し甲府へ向かうが、板垣らの東山道軍に勝沼で敗戦。
齋藤はこの後会津へ向かう。
会津においては会津藩とともに新選組隊長として白河・母成峠等にて戦う。
会津にて土方歳三と再会するも、土方の仙台行に対しあくまでも恩ある会津にて戦うことを主張し新選組本隊と別れ如来堂にて官軍と戦う。が、慶応四年、如来堂の戦いにて負け、やっとの思いで脱出。その後会津城落城。
落城後、会津藩士とともに斗南に配流。その後明治3年頃に上京。
警視局(庁)に就職し、明治10年、西南戦争に警視隊として出征し叙勲。
会津藩大目付高木小十郎長女時尾と結婚(旧会津藩主松平容保、佐川官兵衛が仲人)
後、教育博物館勤務、東京女子師範学校勤務
大正4年(1915)9月28日 死去(71才)

晩年、胃潰瘍を病む。
死期を悟ると、病身を床の間に運ぶよう家族の者にいい、座布団を重ねた上に端座しカッと眼を大きく見開いて後息を引き取った。
墓は会津若松市七日市の阿弥陀寺。会津戦争で共に戦った会津藩士の墓所と隣り合っている。

中山博道の道場「有信館」の門弟で、昭和5年の展覧試合にて優勝し昭和の剣豪と謳われた山本忠次郎によると、山本が明治42、3年の頃、河原で突きの稽古をしていたとき、たまたま近くに住んでいた藤田五郎が突きの手本を見せてくれた、という。つるした空き缶を木刀で突くのだが、踏み込んで双手で突いた後も缶は静止している。しかし、その表面には穿ったような剣先の貫いた痕が残っていた。しかも突いたあと一瞬のうちに構えは中段に戻っていた。藤田老人によると「『突き』は突くときよりも突いた後が難しい」「突きは初太刀でうまくいくことは少ない。初太刀をかわされてさらに踏み込んで二の突き。またかわされて三の突きで決める」「刀は横に寝かせる。これにより喉を逸れても刃が敵の首筋を撫でる。」「突きは突くだけの業ではない。上段に構えた相手の小手を切り落とそうなどとしなくてもよい。これを突いて、左手の自由を奪い、それからゆっくり倒せばよい。」「竹刀の試合では一本にはならないのは知っている。今の剣術はわたしたちのやった剣術とは違うものです。」

以上、やたらリアルで凄みがあると思いません?
やはり「突き」が得意だったようです。

有名な事件などとのかかわりは・・・・
文久三年の芹沢鴨一派暗殺。
慶応三年の天満屋事件。
慶応二年の谷三十郎暗殺
武田観柳斎暗殺
高台寺党への探索
慶応三年の伊東甲子太郎殺害に加わった(らしい)


[11] Re: 齋藤一(補足) 投稿者:和泉守 投稿日:2002/02/28(Thu) 01:20

以下、補足します。

誕生日 天保15年1月1日 
    だから名前が「一」(はじめ)か?

改名歴 前記のほか山口五郎、齋藤四郎ほかもっとあるようです(ホント正    体不明ですナ、この方・・・)

愛刀  池田鬼神丸国重(銘は「摂州住国重」という話しも・・?)
    2尺3寸1分 
    (刀の目利きもした。で、お酒も大好き・・・似てる・・・)
    (晩年は知人の蔵にある刀をよく見に来ていたらしい)

天満屋事件(紀州藩士三浦休太郎護衛)で中井庄五郎を斬ったのは齋藤らしい。

会津城には結局入れず、明治元年9月22日の落城後も会津高田で佐川官兵衛らとともに降伏せずに戦い続けてのち説得され、10月8日に降伏した。

警視庁に入ってからのこと。
警視庁が定めた「撃剣等級」(2〜7等級?)は4等級。ただし、上位等級は年齢その他がらみらしく、実力は4等級の上位くらいが一番だったとか・・・でも、このとき藤田は45才(結構イッてる)

西南戦争に参加したとき、谷干城と会った。このとき左手で抜刀して斬ってやろうかと思ったらしいがガマンして握手したとか・・・。

以上、雑ぱくですが。


[12] Re^2: 齋藤一(補足) 投稿者:法城寺 投稿日:2002/03/19(Tue) 22:47

> 以下、補足します。
>
> 誕生日 天保15年1月1日 
>     だから名前が「一」(はじめ)か?
>
> 改名歴 前記のほか山口五郎、齋藤四郎ほかもっとあるようです(ホント正    体不明ですナ、この方・・・)
>
> 愛刀  池田鬼神丸国重(銘は「摂州住国重」という話しも・・?)
>     2尺3寸1分 
>     (刀の目利きもした。で、お酒も大好き・・・似てる・・・)
>     (晩年は知人の蔵にある刀をよく見に来ていたらしい)
>
> 天満屋事件(紀州藩士三浦休太郎護衛)で中井庄五郎を斬ったのは齋藤らしい。
>
> 会津城には結局入れず、明治元年9月22日の落城後も会津高田で佐川官兵衛らとともに降伏せずに戦い続けてのち説得され、10月8日に降伏した。
>
> 警視庁に入ってからのこと。
> 警視庁が定めた「撃剣等級」(2〜7等級?)は4等級。ただし、上位等級は年齢その他がらみらしく、実力は4等級の上位くらいが一番だったとか・・・でも、このとき藤田は45才(結構イッてる)
>
> 西南戦争に参加したとき、谷干城と会った。このとき左手で抜刀して斬ってやろうかと思ったらしいがガマンして握手したとか・・・。
>
> 以上、雑ぱくですが。


[13] Re^3: 齋藤一(補足) 投稿者:法城寺 投稿日:2002/03/19(Tue) 22:50

↑間違えました・・・。
鬼神丸国重は、齋藤一人気も手伝って、さほどの高値ではないのになかなか出回りませんと書こうとしたんです。


[8] 宝蔵院胤栄 投稿者:洒落頭 投稿日:2002/02/10(Sun) 14:14

 宝蔵院とは興福寺の塔頭(子院)の一つ。宗派は法相宗にあたる。
 胤栄(1521〜1607)(大永元〜慶長12)は13歳の時に得度を受け、僧籍に入る。修業の後、30歳の頃には大法師となるが、彼の修行は「六方衆」と呼ばれる僧兵のための訓練が中心だった。
 彼が宝蔵院流槍術を一つの完成形に高めた人物とされているが、彼が特に強い影響を受けている流派は二つある。一つは飯篠(いいざさ)盛近系の神道流(新当流)であり、この流派は長刀などの長道具を得意としていた。もう一つは上泉伊勢守の新陰流である。上泉伊勢守を大和に招き、柳生石舟斎と共に教えを受けている。
 桃山〜江戸初期には優秀な高弟が次々と現れるが、胤栄は76歳で法印(僧正に相当)に就いた頃も老体に鞭打って教授していたという。直弟子としては中村直政(武具を継承する)高田又兵衛(小倉藩に仕官)胤舜(継承者、胤栄の兄の孫)などがいる。
 武具を継承者である胤舜に継げなかったことや、徳川将軍を招く「上覧」が胤栄の代にできなかったことなど、寺院ならではの苦労もあったが、明治期の廃仏毀釈では一時衰退の憂き目に遭っている。
 宝蔵院流槍術は槍術の一流派として現在も流れが残っており、数々の創作にも胤栄や使い手が現れている。
参考資料 江戸時代人づくり風土記29 奈良(農文協)
     宝蔵院流槍術ホームページ


[10] Re: 時代は下って 投稿者:雲の絶間 投稿日:2002/02/27(Wed) 22:46

万延元年(1860年)ごろ、大阪の種田宝蔵院流の谷道場で学んだのが、
後の新選組十番隊組長 原田左之助である。
その師匠の谷三十郎は文久三年に新選組に入隊、副長助勤となり、
その後槍術師範を務めている。
(参考文献:角川文庫 新選組全史)


[7] 伊庭八郎 投稿者:剣豪さん 投稿日:2002/02/04(Mon) 12:52

伊庭八郎治秀頴

天保、あるいは弘化元年生まれ
鳥羽、伏見での開戦に遊撃隊として参加して以来、五稜郭で果てるまで、武士の意気地を貫いた侍だと思う。
途中、箱根で片腕を失った。

心形刀流剣術宗家の後継ぎとして生まれたが、稽古を始めたのは遅く、少年時代は漢学塾に通っていたそうです。
剣術の手ほどきは実父の八代目軍兵衛ではなく、九代目軍兵衛によるものであったとも言われていますが、実父の八代目軍兵衛は、安政年間のコレラにより、八郎が15、6歳の時に亡くなっています。
八郎が本格的な剣術修行を始めたのは、父が亡くなってからということらしいが、相当の才能があったらしく、上達はあっという間だったらしい。
それに比例して、出世するのも早く、将軍や城内の警護をする新御番入りから後、御書院番、奥詰への出仕し、講武所においても、元治元年当時、すでに教授方であり、これらは、まだ部屋住みで弱冠21歳の頃の話です。

心形刀流伊庭道場と講武所

宗家八代目伊庭軍兵衛秀業のとき、老中水野越前守に江戸留守居役与力として取立てられ、旗本、御家人の幕臣たちが門人として送り込まれた。その伊庭道場の気風は荒々しいのが特徴で、伊庭の門人は一目見れば、すぐにそれとわかるほどであったといいます。そして幕府が設立した講武所には、各流派から優れた師範が集まり、その稽古はかなり激しいものであったとか。
八郎はこのような環境で、腕を磨いた訳です。

山岡鉄舟

後の鉄舟、山岡鉄太郎との試合の様子が伝えられていますが、おそらく講武所で行われたのではないでしょうか?
講武所設立当初から世話役として出仕していた山岡とは、しょっちゅう顔をあわせていたはずです。
江戸中の評判となり、道場には見物人が溢れんばかりであった、といわれてますが、しかしその内容はいくつかの全く異なる話として伝わっています。
その1
凄まじい突きの威力で「鬼鉄」の異名をとる山岡の突きを、八郎はヒラリ、ヒラリとかわして微笑んだ、というもの。
その2
突きの威力で名高い心形刀流の八郎が山岡を道場の羽目板まで追い詰め、火の出るような突きを見舞うのを山岡が間一髪でかわすと、八郎の竹刀が羽目板に突き刺さったというもの。
いずれも、勝敗の行方ははっきりとしていない。

上覧試合

将軍家茂の2回の上洛に随従し、京都滞在中には、しばしば上覧試合が催された。
詳しい話はわからないが、江戸剣客の最高峰に位置する奥詰たちの試合であり、八郎は家茂からいくつかの品を拝領していることから、彼の実力は推して知るべし、である。

百人斬り

戊辰戦争における八郎の奮戦ぶりをうかがわせるのが、「百人斬りの伊庭」という異名ではないだろうか?
ここまでくれば、幕末最強の剣豪と言っても良い。
西軍側は、伊庭の名を聞いただけで震え上がったそうです。
寺院に本営を構えた薩軍の軍監、野津七左衛門の部隊を急襲した時の活躍が、百人斬りと評されたらしい。
薩軍の兵士、四、五人を切り伏せたと言われている。とすると、示現流、あるいは自顕流との対決ですね。
一説によれば、1月4日、本願寺での戦闘であるといわれるが、一方、伊庭八郎は1月3日、伏見奉行邸前において被弾、中書島へ退却の後、大坂へ搬送されたともいわれています。
野津七左衛門は鳥羽方面の支援隊を率い、八郎の所属する遊撃隊は伏見にあったのだが、野津七左衛門は後に八郎の奮戦の模様を証言しているというし...
また一方、大目付瀧川播磨守による薩軍との関門談判の場に八郎がいたともいわれ、この談判は鳥羽で行われていた。
はたして、八郎はどこにいたのか?


蛇足

心形刀流の八代目軍兵衛はその名を知らぬ者はないというくらいの名声を博していたそうで、その総領たる八郎は道すがら町娘たちが大騒ぎするほどの色男であったとか。官軍を憚り、「伊庭七郎」なる錦絵などが刷られたそうです。
また、土方歳三の喧嘩に近藤勇を伴って加勢したともいう話、片腕で松の木を切り倒したという話などがあります。

参考文献

「伊庭八郎のすべて」新人物往来社
「新撰組剣豪秘話」新人物往来社
「日本の剣豪 五」 旺文社
「日本剣豪譚幕末編」毎日新聞社
「剣客物語」文芸春秋社
その他諸々


[5] 草深甚四郎 投稿者:法城寺 投稿日:2002/02/02(Sat) 12:22

加賀藩の軍学者有沢武貞の古兵談残襄拾玉集にこのような記載がある。
「塚原卜伝、泉州堺の住人真言宗の慶尊院という出家と同道して、加州に来る。そのころは加州は一揆国なり。草深村の甚四郎という槍遣いと仕合して、卜伝、勝つこと叶わずとなり。甚四郎はまた、卜伝と太刀仕合して、勝つこと叶わず、これにより互いに弟子になりたりというなり。草深甚四郎は、深甚流剣術の祖なり」
塚原卜伝はある意味伊勢守信綱と並び賞される剣聖といっても過言ではない。生涯で真剣の仕合十九、戦に臨むこと三十七度、一度も不覚を得ず、矢傷六度被ったのみという前代未聞・不世出の剣豪である。
その剣聖に「槍では勝ち、剣では敗れた」という甚四郎とはいったい何者なのか。剣・槍・弓・体術の全てが要求された時代であるので卜伝と互角といえる剣士だが、その生涯は謎に包まれており未だ詳細はわかっていない。加賀藩には深甚流として江戸時代にも流儀は伝わっているが、当時のままのものかどうかも実はわかっていない。
ただ言えることは、広い日本に未知の強豪がいたことの証明ではないだろうか。そして、これは塚原卜伝がいかに強い剣士だったかの逆説的証明ではないだろうか。


[4] 柳生十兵衛三厳 投稿者:じゅうべい 投稿日:2002/01/30(Wed) 09:56

第1号はやはりこの方から。
柳生十兵衛三厳、慶長十二年(1607)柳生宗矩の長男として大和柳生の庄で生まれる。幼名を七郎といい、従兄の兵庫助利厳と同様、父よりも祖父の石舟斎宗厳に似て兵法には天稟(てんびん)の資質を備えていたと云われる。
『玉栄拾遺』にも「弱冠にして天資甚だ梟雄、早くも新陰流の術に達し、その書を述作し玉う」とあるとおり、暴れん坊ではあったが学問好きでもあったようである。
元和二年(1616)十歳の時、父宗矩に伴われて二代将軍徳川秀忠に拝謁、同五年三代将軍たるべき家光の小姓として出仕した。元和九年十兵衛(当時は七郎)十七歳の時、家光は将軍職を嗣ぐ(家光二十歳)。歳も近く、将軍にとっては手頃の兵法相手だったようで「寵遇甚だ厚」かったと記されているが、出仕後四年目(寛永三年)、勘気を蒙り致仕する。再出仕するのは十二年後の寛永十五年頃とされている。
この12年間が空白で、後の講談話などにあるように諸国を隠密して廻ったとか、色々物語になるわけである。この十兵衛の進退についてはたぶんに宗矩の意向が働いていたのではないかと私は考察している。この間諸国を漫遊していたとされるが、実際は柳生の庄において兵法三昧の生活であったと考えられる。柳生家を嗣ぐものとして家法である新陰を研究研鑽し、後に残すという作業に没頭していたように思えるのだ。そして、宗厳、宗矩の目録・口伝をまとめ「月の抄」を編んだ。現在は今村嘉雄先生による「資料 新陰流」に訳が載っているが、新陰のバイブルの一つともいえる。惜しむらくは四十四歳という歳で他界してしまった点だろうか。祖父宗厳や父宗矩のように70過ぎまで生きてあればもっと多くの著述を後世に残してくれたかも知れない。

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[6] Re: 柳生十兵衛三厳 投稿者:タノQ 投稿日:2002/02/03(Sun) 18:20

家光の勘気を蒙り致仕云々…に就いては十兵衛三厳が性狷介であった為とする著述も御座いますが何分ハッキリとした記録が御座いません
武芸に関心高く亦、衆道者であった家光の天才十兵衛三厳に対する信頼と憧れが、やがて恋心に換っていったものをストレート十兵衛三厳が疎んじて出奔した…等と云う可能性も根拠が御座いません

講談や映画、ドラマにある通り十兵衛三厳は隻眼の剣士でした
彼が片目を失うた理由は幼少時、稽古中の事故に拠る怪我とする一説が御座いますが、矢張り此れもハッキリ致しません

どれも此もハッキリ致さないのは彼が余りに早う夭折した為と想われます
亡くなる直前迄元気一杯であった(山歩き中?乗馬中だったかな)彼の死因は現在で云う急性くも膜下出血ではなかったかと診る説も御座います
此れも現在ではハッキリ致しません


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