試し斬り- |
副題・「即座にネタバレしそうなコンテンツ」 |
はじめに |
あれ?この壁紙どっかで既に使ったかな? 扨、武士として、剣術修行は欠かせないものである。 小噺がある。 落語の「枕」の部分に使われたりする噺であるが、志ん生師はこの後、 当コンテンツでは、試し斬り、それも人体を使った試し斬りについて述べていきたい。 |
難度 |
時代劇で見る様な、相手を両断しない斬り方というのか、人間の前面なら前面、背面なら背面だけを斬る様な斬り方に、試し斬りの練習が必要かどうか知らないが、ああいう斬り方でも、斬られた方は死ぬんだから、尠なくとも刃が肋骨を切断して内臓に迄達するから、「うぐあ!」・・・ドサッ・・・という事になるんじゃないかと思われる。 しかし、そういう、「格別、相手を両断したくないならしなくともよい斬り方」じゃあ済まされない場合もある。 「切腹」の項目で触れたが、武士には稀に切腹の介錯を命令されるか、依頼される事もあろう。(ん?そんな事「切腹」で触れなかったっけな。) 川越藩の「藩邸日記」には、天保七年(1837)の箇所に、 寛政九年(1797)十二月十六日、播州龍野藩に仕える儒者、股野玉川は、その著書「幽蘭堂年譜」の中で、この日の朝、牢屋内で罪人の処刑が執行されたが、斬首役が「甚不手際」で、九刀目で漸く首を落としたと記している。 尤もこういう事が起こるのも、斬首自体の難しさも勿論あろうが、時代が新しくなって、武士ともあろう者が据物斬り等を厭う様になり、碌に練習もしなくなったからであるかも知れない。 「葉隠」(佐賀。成立1716)に、昔は十四、五歳になると、首斬りの稽古をさせられたものだ。殿様だって例外ではない。 尠なくとも成立としてはもっと前の「鸚鵡籠中記」(尾張。1691〜1717)でも1693年12月14日の記述で、 しかし斬首が誰でも彼でも上手くいくとは限らないのは、「葉隠」の古老が嘆く様な惰弱の気風ばかりが原因ではない様である。 1879年、高橋お伝(この名を聞いてぱっと分かる方も居られましょうが、私はこの「お伝事件」については余り知らないので、説明はせずに、すっとぼけて先へ進みます。)の斬首役を仰せつかった浅右衛門吉豊。 この事からも、人体の刀による切断が、如何に難しい事かが窺えるではないか。 |
頻度 |
難しいなら練習しなくちゃいけない。しかし限られた資料からのみであるが、上記の事から、江戸中期以降、尠なくとも「頻繁」には人体による試し斬りは行われていなかったであろう事が朧気乍らわかった(事にする)。 しかし、人体による試し斬り・・・ちょっとニュアンスが違うが、これから据物斬りと言う事にしよう・・・を、やろうとしたところで、これは江戸中期に限らず、どれ程練習台である屍体が入手出来たのか? 先ず思い付くのが、処刑された罪人の屍体である。 徳川幕府治世下での「死刑」は、「死罪、斬罪、下手人、獄門、磔、火罪、鋸挽き」の七つがある。(因みに、この中で斬首刑は、「死罪、斬罪、下手人、獄門」である。) と、いう様に(わからん所は触れずに進む)、浅右衛門にしたところが、なんでもかんでも刑屍体を貰って来ちゃあ、据物斬りに使える訳ではなかった。(広島藩の「御仕置定式」にも同様の規定あり。) 況してや江戸詰め諸藩邸の連中には、そう屍体が回ってくるものではなかったであろう事は察しがつく。 しかし先の「鸚鵡籠中記」の尾張藩士、朝日文左衛門の如く、国元に在れば、御手前仕置(各藩の裁量によって行う仕置)で出た屍体のおこぼれに預かる事が出来る可能性は多少高くもなるんじゃなかろうか。 ところで前述の「編年大略」の中に、「拝領」という言葉がある。 「葉隠」に於いても、藩士、中野数馬が、 更にしつこい様だが「鸚鵡籠中記」でも、 なんとしても「斬り手」に対して、「素材」が不足気味なのは江戸期全般に渡って言えた様である。 越前福井藩士、山崎英常の「続片聾記」に、 そういう人は何処にでも居た様で、当局も遉がに見兼ねたか、禁止令を出した藩すらある。 刑屍体も駄目。その辺の死骸も駄目。 辻斬りといえば、酷い話がある。 |
まとめ |
という訳で、まあ、纏めてみると、「難度」の高い人体切断の技術を向上させようとして、練習の「頻度」を高めるにしても、屍体調達の難しさからして、武士とはいえ、そうそう据物斬りの練習なんぞはしなかったものと見て良かろうかと思う。 出羽庄内藩士、小寺信正の「志塵通」には、 最後に、 弘化四年(1847)当時奈良奉行であった川路左衛門尉聖謨の「寧府紀事」に、 折角の大枚をはたいて買った御刀を、悪くしてしまってはいけません。 |