実録・切腹
 
慶応四年正月に起こった、所謂「神戸事件」の責任を取る為切腹した岡山藩士、滝善三郎正信の切腹の様子が、当時の英国駐日公使館書記官・ミットフォードの著書、「旧日本の物語」に詳しく描写されているので、何はともあれ、そいつを引用してみよう。
 
我々(七人の使節団)は日本側の検視役に先導されて、その寺院の本堂へ招じ入れられた。ここで切腹の儀式が行われる事になっているのである。その儀式は誠に堂々として、忘れ得ぬ光景であった。

(中略)正面の一段高く置かれた仏壇の前には、床から三、四寸高くなっている座が設けられている。
其処には美しい新畳が敷かれ、赤い毛氈がのべられていた。
等間隔に並んでいる丈の高い燭台はほの暗く、神秘的な光を放っていた。
それは此処で行われる事の進行を見守るには充分な明るさであった。
七人の日本人検視役が切腹の座の向かって右側に、七人の外国人検視役は左側に着席した。
其の他には誰もこの場に居合わせる者はいなかった。

心落ち着かない数分が過ぎ、軈て逞しい三十二歳になる偉丈夫滝善三郎、が、静々と本堂に歩を運んできた。
彼はこの儀式の為に麻の裃に身を包んでいた。彼は一人の「介錯」人と金糸の縫い取りの付いた「陣羽織」を着た三人の役人を付き従えていた。

(中略)軈て「介錯」を左に従えて、滝善三郎はやおら日本人検視役の方へ進み出た。
二人は検視役に向かって丁重に辞儀をして、次いで外国人検視役の方に近づいて、同様に一段と丁重な挨拶をした。
どちらの検視役も厳かな答礼で応えた。

そこで、この咎人はゆっくりと威風辺りを払う態度で切腹の高座に上り、正面の仏壇に二度礼拝をしてから仏壇に背を向け、毛氈の上に正座した。
「介錯」は彼の左側にうずくまった。
三人の付き添いの役人の裡、一人が神仏に献げる時に用いる台──三宝を持って前に進み出た。
その三宝には白紙で包まれた「脇差」が載せられている。
(中略)長さは凡そ九寸五分、切っ先と刃はカミソリの様に鋭い。
役人はこの三宝を咎人に手渡し、一礼した。
善三郎は三宝を両手で頭の高さに迄捧げ、恭しく受取って、自分の前へ置いた。
再度、丁重な辞儀を繰り返した後、善三郎は次の様に口上を述べた。
其の声には痛ましい告白をする人から予想される程度の感情の高ぶりと躊躇が顕れてはいたが、その顔色や物腰には少しもその様な様子が見受けられなかった。

「拙者は唯一人、無分別にも誤って神戸に於いて外国人に対し、発砲の命を下し、その逃れんとするを見て、再度撃ちかけしめ候。拙者今、その罪を負いて切腹致す。各々方には検視の御役目御苦労に存知候。」

再度の一礼の後、善三郎は麻の裃を帯辺り迄脱ぎ下げ、上半身を露にした。
慣例通り、注意深く彼はその袖を膝の下へ敷き込み、後方へ倒れない様にした。
身分のある日本の武人は前向けに倒れて死ぬものとされてきたからである。

善三郎はおもむろに、しっかりとした手つきで、前に置かれた短刀をとりあげた。
一と時彼はそれをさもいとおしい物であるかの様に眺めた。
最期の時の為に、彼は暫くの間、考えを集中している様に見えた。

そして、善三郎はその短刀で左の腹下を深く突き刺し、次いでゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きを変えてやや上方へ切り上げた。
この凄まじい苦痛に満ちた動作を行う間中、彼は顔の筋一つも動かさなかった。
短刀を引き抜いた善三郎はやおら前方に身を預け、首を差し出した。
その時初めて苦痛の表情が彼の顔をよぎった。だが、声はなかった。

その瞬間、それ迄善三郎のそばにうずくまって、事の次第を細大漏らさず見つめていた「介錯」が立ち上がり、一瞬、空中で剣を構えた。
一閃、重々しく辺りの空気を引き裂くような音、どうとばかりに倒れる物体。
太刀の一撃で、忽ち首と胴体は切り離れた。

室内寂として声なく、只我々の目前に有る最早生命を失った肉塊から、どくどくと流れる血潮の恐ろしげな音が聞こえるばかりであった。
一瞬前迄の勇者にして礼儀正しい偉丈夫は斯くも無残に変わり果てたのだ。
それは見るも恐ろしい光景であった。

「介錯」は低く一礼し、予め用意された白紙で刀を拭い、切腹の座から引き下がった。
血塗られた短刀は、仕置きの血の証拠として、厳かに持ち去られた。

   
   
刑名としての切腹
 
切腹が刑名として使われる様になったのは、江戸時代に入ってからの事である。

無論士分以上の者に適用される刑名であって、農工商は言う迄も無く、足軽にも適用されなかったという。
「足軽は『士卒』でいう『卒』であるという。)

注意を要するのは、
「切腹申しつける。」
と言われたとしても、その本刑は斬首だという点である。
(従って「切腹」というのは「斬首」の閏刑である。)

では何故わざわざ「切腹」を申しつけるのかというと、その罪が武士の本分を辱めない場合に限って、「自分で死なせてやる」。つまり武士の情けというか、寛容な裁きであって、ここ迄が武士の待遇なのである。

ところがこれが、「武士の風上にもおけぬ奴」と言われる様な罪を犯しておれば、切腹は赦されず、
「斬首(成敗)申しつける。」
となる訳である。

但し、必ずしも主君に命ぜられてから切腹するケースばかりではなく、自分で勝手に腹を切ってしまうケースもあった。

例えば何か、バレたらヤバい様な事をしてしまい、それが本当にバレた場合。
遅かれ早かれ、上から呼び出しがかかる。
喚問に応ずれば、一言の申し開きも出来ない事が、自分には分かっている。
そうなれば切腹か、追放か改易か、軽くても閉門か・・。
そんな時、自分でさっさと切腹してしまうのである。
理由は色々だが、切腹して武士の面目を保ったり、家の断絶を、それによって免れたりするのである。

後述する「追い腹」も、そんな「自分で勝手に腹を切る」ケースのひとつと言える。

また、自分でさっさと腹を切ってしまわなければならない様な状況になっても当人が切腹しない、或いは、縁者中の誰かがヤバイ事をした時、当人は「大した事は無い」と思っていても、親類縁者が相談の上、一族に累が及ばぬ様(主君から御咎めを蒙らぬ様)、一族が寄ってたかって、上からの詮議を受ける前に無理矢理腹を切らせる場合が有る。
これを「詰腹(つめばら)」という。

こんなケースも有る。
ヤバイ事をした当人が詮議を受け、藩からの裁定が下った。判決は「遠島」。
併しこの判決、何らかの事情で外聞(藩の外への)を憚っての裁決であって、藩主若しくは藩当局の真の意向は「切腹が望ましい」というものであった。
結果として、「藩は遠島と寛大なる処分を下したが、当の容疑者は潔く腹を切った。」という体裁を取り繕った方が、内外への聞こえも良いとの読みが有ったからではなかろうか。
そうした場合、容疑者の親類縁者数人が、内密に藩当局から呼び出しを受け、
「何某(容疑者)事、遠島仰せ付けられ、座囲に入れ置かれると雖も、追々(藩主にも)聞こし召さる通りの趣コレ有る間、親類心得を以って相働くべし。」
何某は遠島を仰せ付けられ、座敷牢に入れ置かれてあるが、追々殿からも御訊きになられる事も有るゆえ、親類が自らの心得で相働く様に・・・と言い含められる。

言い含められた者達は、帰って親類一同と相談の上、容疑者に切腹の内意が有った事を告げるのだろう。
中には「左様の理不尽、承服致し難し!」として抵抗する者も居ただろうが、そうした場合、親類が寄ってたかって殺してしまい、表面上は切腹して果てた事にしてしまうらしい。
明かに殺人であるが、元は藩当局の命令であるから、検使人が屍体を検分する際にもいい加減に検分するし、当然手を下した親類一同には何の沙汰も下らない。

   
   
切腹の作法
   
切腹は飽く迄「斬首」が本刑であるところから、時代が進むにつれ介錯人の腕前に重点が置かれる様になり、作法そのものも五月蝿くなってくるのである。

切腹の作法が形式化したのは、江戸も中期にさしかかる頃であるという。

切腹の沙汰は、普通夜中に本人に通知される。

受刑者が大名家等に預けられている場合、預かり人の方では直ぐに介錯人を選ぶ。

介錯人は二人(正介錯人と副介錯人。正介錯人が怖気づいたりした場合に備える。)亦は三人。
時代が進むにつれ、三人である事が多くなった。

介錯人は切腹を援け、刑場を護るのが役目であるから、必ず腕の立つ者が選ばれ、麻裃に大小を差して務める。
牢獄内であれば、牢屋同心が介錯人となる。

前述したミッドフォードの著書にある記述とは少々違うが、切腹の場は、先ず砂を敷き、その上に畳二枚を敷いて切腹の場とする。
色々説があるので困るのだが、室内でやる場合、屏風を、逆さに立てたり二枚立てる時の引き違え方を逆にしたり、下に敷く畳は裏返しにし、其の上に浅黄色か青色の布か布団を敷き、そのまた上に砂を撒いておく。なんという話もある。

正式の切腹の場には、牢獄内であろうと預かり人の屋敷であろうと、検使が来る事に変わりはない。

武士が他人の家を訪ねる際、普通は玄関にある刀架に大刀を掛けるか、家の人に預けるか、亦は室内に持って入っても、害意が無い事を示す為大刀を右手に持って入るが、この検使だけは、預かり人の家に入る場合でも両刀を帯びた儘であった。

受刑者は切腹に臨んで沐浴をし、清浄な体で事に臨むが、この時、盥に湯をはるのに、常の如く湯に水を注いで湯をうめない。
先ず盥に水をはってから、逆に湯を注ぎ込んで温度を調節するという。

先日縁者の葬式に出た時、親戚筋にあたる小父さんが、「故人の体を拭くお湯は、水にお湯を入れて温度を調節するんだ。」と言っていたのを聞いて吃驚した事がある。

切腹の作法から来たものか、逆にそうした作法を、切腹の方が取り入れたものか・・。
余談だが、顔を洗うに湯を使うと、「切腹の砌顔色悪しく甚だ見苦しき者也」。

話が逸れた。扨、切腹人のスタイルは白無地に紋なしの小袖。
これは後ろ襟を縫い込んで低くし、首を打ち易い様にしてある。
裃は浅黄色で、これも無紋の麻布製。
こうした切腹用の装束は、心得ある武士の家には、常から用意されていたものであるらしい。

切腹の時間が来ると、受刑者は西に向かって座る。
と同時に正介錯人は、受刑者の左斜め後ろに立って、刀を抜く。
この時、介錯人に対して、受刑者が目下の者なら介錯人は右片手に刀を下ろし、同程度の身分の者なら八双(諸説あり)に構え、目上の者なら上段に構える。

どのタイミングかは定かでないが、この時介錯人は受刑者に対して一礼し、「何の何某で御座る。御安心召され。」
と言うというが、どうもよく考えてみると、下段に構えて一礼するならまだしも、上段又は大上段に構えた状態で一礼するというのも態勢が不自然であるから、一礼し名乗るのは、構える前か?

牢屋役人だと、この場合必ず名乗るらしいが、藩によっては名乗らぬ事もあるらしい。
そう言う場合、介錯される方も介錯が下手だと困るから、受刑者の方から自己紹介を求める。
其の際、介錯人の方では前述の如く応えるか、
「槍一筋の者で御座る。御安堵召されい。」
と言うのが作法である。

そうこうする間、副介錯人は受刑者が服を脱ぐのを手伝っている。

肩衣をはね、もろ肌を脱いで、両袖を膝の下に敷くのは、ミッドフォードの部分で書いた様に、切腹の痛みで後方に仰け反らぬ用心からである。

副介錯人が、受刑者の服を脱がせ終わると「コンコン」と咳をする。
それを合図にもう一人の副介錯人(いない場合は他の介添え役)が小刀を載せた三宝を運んできて、受刑者の三尺前に置く。

受刑者はそれで腹を切るが、はじめの裡は受刑者が腹を切ってから介錯刀が振り下ろされたものであるが、それがだんだん、刃を腹にあてるかあてないか位で首を落としてしまったり、酷いのは三宝に手を伸ばして前かがみになったところで首をおとしてしまったり、挙句の果てには、予め紙で巻いた扇子が三宝の上に用意されていて、受刑者がその扇子を腹にあてた時に刀を振り下ろすという、どうにも変な事になってくるが、これを「扇腹」という。

※切腹の短刀の握り方であるが、右手で柄を握った時の事を想像して欲しい。其の際、拳が下を向く、詰り、親指は柄頭の方を向いていると思うが、多くは拳が上を向く、詰り、親指が腹側を向く様に握るのだという。昭和の前半には切腹の仕方を習慣的に識っている人が多かったらしく、そういう人の証言を根拠にした説である。
後者の持ち方の方が力が入り易いと言うし、歌舞伎や錦絵等では実際こういう持ち方が多いのだそうだ。(私はチェックしてないけど)


「扇腹」が何時頃から始まったのかははっきりしないらしいが、余り古い本には出て来ない様だ。
赤穂四十七士も、この方法で切腹(?)した者がいた(一説には全員ちゃんと切腹しなかったとか。)らしいから、その頃には既にあったものだろう。

また話が飛ぶのだが、赤穂四十七士の話が出た序でに、彼等が一人もまともに切腹しなかったと、断定的に言い切ってしまう資料がある一方、浪士中の十人を預かった毛利家の記録「毛利家乗」に、それに反する記述があるので簡単に紹介しよう。

「しつらえられた切腹の座には畳二枚を敷き、白布の布団をのべ、四方を囲う。
紙で包んだ扇子十本を用意したが、それは無用との事だから、刃先を三分出し薄い板で両方を挟み、こよりで巻き、其の上を白布で包んだ小脇差十腰を三宝に載せる。
介錯人に従い、一人座につき自刃し終わると、切り落とした首を丸腰の足軽が高々とささげて監察に示す。
(中略)切腹にあたり、誰もが介錯人の名を訊いた。また、「しっかと頼む」と話し掛ける者も居た。
(中略)光風(間新六)は、座につくや肌を脱ぐより早くいきなり三宝を引き寄せ、脇差をとって電光石火の如く自刃。(以下略)」
この後もう一人の切腹の模様が描写される。
この様に、尠なくとも三人が切腹していたとの記述がある。

また話しが逸れた。
話しは戻って、扇腹よりもっと情けないのは、受刑者が腹を切る段階になって怖気づき、すくんでしまったり命乞いをしたりした場合、介錯人がその背中を蹴飛ばして、反射的に首が伸びたところを斬り落とすという事もあったという。

いずれにせよ、こうなるともう、腹を切らずに首だけ落とされる・・・。
打ち首と変わんねぇじゃねぇかという話である。

書き漏れたが、お外でやる場合には、受刑者の座る前に穴を掘っておく事がある。
首を刎ねた後、胴体は前へつっ伏し、首から流れ出る大量の血が、その穴の中へドクドクと流れる寸法である。

首を刎ねる際、所謂「皮三寸」を残して、首が胸に垂れ下がる様に斬るのを最上とした。
であるから、下手クソだと皮を残せず、首がすっ飛んでしまう訳である。
亦、血気にはやった若侍が介錯を買って出て、緊張の余り、一発で首を落とせず、顎や肩に疵を付けてしまうのも、「其の家中に人材無し」と言われて、預かり人の家の恥じになるので、介錯人の選択は重大問題である。

扨、そうして首を刎ねた後は、すぐさま正介錯人か副介錯人、牢屋であれば下役人がその髻を掴んで右膝をついて検使に首を見せるが、この時検使の方へ、首を正面にしては見せない。
首を検視させる時には、必ず横顔をみせるのだそうである。

首実検を済ませて、「切腹」は終る。

   
   

腹の切り方

 
正十文字

江戸初期迄は、十文字に腹を切るのが正法とされた。
一文字に切る者があると、「あれは物好きだ」と言われたらしい。
わざわざ苦しい十文字が正法とされたのは、必ずしも介錯人が居るとは限らない戦場で腹を切るのに、一文字では直ぐに死ねないからであろう。

やり方であるが、「細川両家記」という本に、会話の一説であるが、次の様な遣り取りがある。
「お腰の物を抜き、左の脇に刺し立て、右手の脇へ引き回し、返す刀にて心本(みぞおち)を刺し立て、袴の付け際へ押し下し候。」

先ず臍の高さの左脇腹に突き立て、真っ直ぐに右脇腹迄裂く。
一度刀を抜いて持ち直し、刃を下に向けてみぞおちに突っ込んで、其の儘臍迄切り下げる。
人によっては、其の後喉を突く事もある。

※昭和前半、実際に切腹した人を見た人の証言だと、十文字に切ろうとしても却々成功しないらしい。
臍より下を横一文字に切るのは、左程深く切り込まない限り、我慢出来る痛みだが、みぞおち付近に刃を差し込むとかなりな痛みで遂行不能に陥る様だ。其処から斬り下げる事が可能なのも、矢張り江戸前期迄の武士なればこそか。
更に、考えてみれば腹直筋というのは縦に繊維が走っているから、緊張すると上下に収縮する。第一段階で腹直筋が完全に切断される程深く横一文字に切ると、腹直筋は上下に収縮するから其の際の疵口は開き易い。この段階で腹膜迄完全に切断されていれば、腹圧で腸が飛び出すらしい。
第二段階でみぞおちに差し込んだ刃を下に切り下げていき、第一段階の疵口に差し掛かった時、先ず腸が刃の進行を阻害する。はらわたは柔らかいので容易に切断出来ないのだ。
更に第一段階の切り口の下部はピンと張り詰めている訳ではない。押さえれば内側や外側にめくれてしまう。これを押して切り込む訳だから、なまなかな気合では成功しない。
実際の十文字の実例では、其の多くがはらわたが飛び出していなかったんだとか(千葉徳爾)。だから第一段階の横一文字ではらわたが飛び出す程深く切り込んでいなかったんだろう。


鉤(鍵?)十文字

左脇腹に刀を突き立て、左手で柄を押して斜めに恥部に向かって切り下げ、刃を転じて今度は右手で右脇腹迄切り上げ、また刃を転じてみぞおち迄切り上げる。
幕末の「堺浦事件」の大石甚吉がこの方法で切腹した。

右十文字

左腹の下部に刃を浅く刺し(腸迄届かぬ様)、右腹迄一文字に引いて切っ先を斜めに跳ね上げ、その勢いで左乳下の急所を突く。
土佐の弘瀬年定(誰それ?)がこの方法で自刃。

左十文字

左脇腹を真っ直ぐ下へ切り下げ、下腹部を右に向かって切る。

名無し

左から右に一文字に切り、一旦抜いた刀をみぞおちに突き刺し、右脇まで切り下げる。
昭和20年、満州でソ連兵に捕まった18歳の日本人女性が、さんざん嬲りものにされた挙句、
「日本の女なら、腹切りが出来る筈だ。」
と言われ、この方法で割腹し、あふれ出た腸を握り締めて絶命したという。

名無し

右の股から真上に切り上げ、左脇腹へ切り下げる。
旗本水野十郎左衛門がこの方法で切腹。

一文字

江戸中期になると、十文字腹は恨みを残す「遺恨腹」として忌み嫌われた。
遺恨を残すのは潔くないからだ。
従って、介錯人が付かず、自力で死なねばならぬ時でも一文字でやった。
例え一文字でも、深く切り込んで腸を掴み出す様なスタイルも「遺恨腹」と呼ぶ。

やり方もなにもないが、只位置的には、臍の上一寸、亦は臍の下五分であるといい、どちらでもよかった。

変形の一文字には右脇腹から左脇腹に大刀を貫通させ、突き出た切っ先と柄を掴んで前へ押し出す方法があり、「仙道記」の多川八郎がこの方法を用いている。

不破伴作は、左乳下から右脇腹迄一直線に切り下げている。

二文字というのがあるが、赤穂浪士の大石主税(※関連情報)がやったというが、作り話であるという。

三文字は乃木将軍がそうであった。

縦一文字というのもあったらしい。

(遺恨腹)
江戸時代も安定してくると、武家の作法等というものが出来て来る。
すると、有職故実家などが切腹の仕方等にも口を出し始め、紙の包み方だの三方に載せる位置等に「口伝あり」等と勿体振って説く様になる。
そこで切腹する当事者がはらわたを摑み出してブン投げたり等の勝手な真似を始めると、彼等故実家達の立場が無くなってしまう。
だからこうした腹の切り方に、故実家達が非難を始めたのが、のちに「遺恨腹」等と言われる様になる原因のひとつ。

また、これが「遺恨腹」であるなら、支配者からの指示である「切腹命令」に対して「遺恨」を残す様なやり方をすれば、「遺恨」の対象は支配者に対してであるという解釈が成り立ってしまう。これでは支配者側としても都合が悪いので、先の故実家達の批判に同調した。これも「はらわたを摑み出す」様なやり方を嫌い始めた原因のひとつ。

更に、切腹の場に居る人間、即ち切腹する当人も検使も介錯人も、立場こそ違え、同じ武士。そもそも切腹というものが「武士の情け」で実施される、「刑罰じゃないよ。自殺だよ」という建前で行われるものであるから、切腹の場に立ち会う者達も、受刑者に対して同情を禁じ得ないという事も無くは無かろう。其処で、はらわたは飛び出すわ、血は大量に出るわ、呻くわ、苦悶の表情はするわ・・・というやり方をされたのでは、悲惨さが強調されて、一転して刑を命じた側を批判したくなるのも、人情として起り得る話だ。
これも支配者側としてはうまくない。中国共産党の情報操作ではないが、「はらわたを摑み出す様なやり方は、分別有る武士のやる事ではない」などという空気を創りたくなるのも分かるというものだ。

   
   

追い腹

   
本来この項目は「作法」の前に入れるべきであろうが、何故そうしなかったのかというと、挿入の仕方がわかんなかったのである。
順番を考えないで作るとこういう事になる。

扨、「追い腹」というのは、殉死の意味であって、「主君のあとを追って腹を切る」事である。

徳川の初期は、「追い腹」の全盛時代である。
一人の大名が死ぬ度三〜四人、多いのになるとニ十人程度の殉死者が出た。

「出処進退を誤らぬ武士の心得は追い腹にあり」
なんつって、誰も彼も武士の殉死を当然の事と考えた。

だから、死ぬべき立場にある者が死なずにいると、不忠者、臆病者、腰抜け野郎とさんざっぱら罵られる。

将軍家光が死んだ時、家光に愛されていた松平伊豆守、永井信濃守の二人は、他の重臣が多数追い腹を切ったにも関わらず、自分達だけ殉じなかった。

早速落首が人々の口にのぼる。

「伊豆の大豆、豆腐にしてはよけれども、きらず(おから)にしての味の悪さよ」
「永井して、人のそしりや、なおまさる、出羽に遅れて品の(信濃)悪さよ」

「出羽に遅れて」とは、家光死去に際して、内田出羽守が腹を切っていたにも関わらず・・・という意味である。

こういう風だから、忠義の追い腹だけではなく、そうした世間の目を恐れての、余儀なき切腹も多かったのである。

殉死三腹

追い腹の動機には三種類あると言われる。

主君と、「念者」と「若衆」の関係、つまり衆道(男色)の関係にあって、その恋心からとか、或いは飽く迄忠義一途な気持ちで、主人と生死を偕にする心でやるのを「義腹」という。

本当は死にたくないのだが、朋輩が殉死するので、自分もひけを取りたくないという意地とか、名誉とか、世間体を気にしてやるのを「論腹」という。

主君に大した恩顧も無く、死ぬべき立場にも無い者が、子孫の栄光や利益を狙ってやるのを「商い腹」という。

しかし時代が進むと、そうした殉死も影をひそめる。
上述の「商い腹」等の予防策として(?)天和二年に「武家諸法度」で、追い腹が厳禁されたからだ。

(この「商い腹」という概念が出て来たのには、ひとつの元ネタが有るからという。元ネタの書名は失念したが、「商い腹」の概念を持ち出す歴史家・時代小説家の殆どは、此の書に書かれて居る内容を鵜呑みにしているだけの様な節が有る。歴史家の山本博文氏はこの点を指摘して、「自分が史料を調べた限りに於いては、本来死ぬべき立場に無い様な人間が追い腹を切ったケースでも、其の後、遺族に知行の加増が有ったとかいった事実は無い。」という様な事を主張されて居る。随って、自分の死後に遺族の栄達は期待出来ない訳であるから「子孫の栄光や利益を狙って」の追い腹は有り得ないという。
すると、前述した、
「『
商い腹』等の予防策として(?)天和二年に「武家諸法度」で、追い腹が厳禁された」
というのも間違っている事になる。
「山本氏の本を読んだから山本氏の説を絶対と信ずる」
みたいに思われるのも嫌だから本文の訂正はしないでおくが、一応補足として書いておく事にする。)

併し乍ら、禁令が出たからといって、直ぐに「追い腹」が改まる筈は無く、寛文八年、宇都宮十一万石の奥平忠昌が死んだ時、奥平家中の杉浦右衛門兵衛が追い腹をやってしまった。(※関連情報)

それを知った幕府は、幕府の権威を落とさぬ為例外は赦されぬ。とばかりに、其の子善右衛門と吉十郎の二人を打ち首に、娘聟の奥平五太夫、孫の稲田清兵衛を追放。
挙句に譜代の奥平家自体を、二万石削って山形に左遷するという、非常に厳しい処罰を与えた。

それによって「追い腹」はぐっと數が減ってしまったのである。

   
   

余談

   
どうでもよい事だが、切腹というものが何時頃からあったのかを書いてみる。

そもそも切腹の元祖は誰か、という事がよく取り沙汰される様であるので、其の辺りから攻めてみると、「播磨風土記」にある切腹が一番古い。

其処に記されている切腹の概要はこうである。
花浪(はななみ)という男の妻である淡海(あわみ)が、情婦の元へ走った夫を恨んで跡を追いかけてゆき、沼のふちまで行った時、エキサイトし過ぎて小刀で己の腹を裂き、投身して死んだ。
それでこの沼を「腹辟(はらさき)沼」と呼ぶ様になった。
とある。

従って栄誉ある切腹第1号は女性だという事になるが、これは伝説であって、史実ではないらしい。
併し乍ら、史実に現れる遥か以前に、この方法が用いられていた事の裏付けにはなろうか。

やや信頼できる記録上の切腹第1号は、平安中期の武将兼歌人の藤原保昌の弟、藤原保輔である。
何かやらかして投獄され、獄中で割腹自殺したとか。

自殺の方法として切腹が広く普及したのは、平安末期頃である。
源平合戦の頃には大流行りし出し、鎌倉幕府の頃になると、「武士の自殺といえば切腹」みたいになった。

当初は勿論作法などなかった。
源義経が自殺しようとした時は、部下に「佐藤忠信が京都で腹かき切った時は、人々がその様を褒め称えた様ですよ。」と言われたので、「んじゃ」と守り刀をみぞおちに突き刺し、傷口を三方向に切り裂いてはらわたを揉み出した。(義経記)
なんかそそのかされてやったみたいな事になっている。

義経の兄、悪源太義平は、寺に潜伏している処を敵方に発見され、捕まって京都に送られ、六条河原で斬首されたが、その間充分に自刃する暇があったにも関らず、それをせずに縄目の恥を受けている。
これなどは後世の武士が見たら、渋い顔をされるところであろう。

「太平記」の村上義光が割腹する時、「我が自刃するを見て、汝等死す時の作法とせよ!」と叫んで、腹一文字にかき切って、掴み出した腸を投げつけたとあるが、わざわざ「作法とせよ」といっていることからも、当時切腹の作法が普及していなかったであろう事を思わせる。

と、余談はこんなところだろうか。

何にせよ切腹とは、正しく行われる限りに於いては、武士が自らの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、朋友を救い、自らの誠実さを証明する方法であったのである。

                                              (了)

 
切腹関連書籍
 
時代劇を斬る(時代考証家が時代劇を検証)
切腹(431人の切腹事例)
時代風俗考証事典〔2001年〕新(どちらかというと時代考証本か)
江戸時代の国家・法・社会(文字通り江戸期の諸事情を網羅)
日本人はなぜ切腹するのか(民俗学的見地から検証)
切腹の歴史(在庫無くて古本で探すしかないかも)
切腹の話(同上)
切腹論考(切腹の話ばかりじゃないみたい)
列島の文化史(11)(「戦乱切腹の起源」なる項目アリ)
「江戸」の精神史(在庫無いかも)
(必ずしも管理人が実際に内容を読んだ上でのオススメという訳ではありません)