決闘高田馬場
   
赤穂四十七士の一人、堀部安兵衛の外伝である。
が、よくよく考えたらこりゃ仇討じゃないじゃないかい!
けどメニューに挙げちゃったので、一応書きましょう。
 
未だ安兵衛が中山姓を名乗っていた頃。
牛込左内坂の住居に昼頃彼が帰ってくると、叔父菅野六郎左衛門の中間(一説に長屋の大家である宮大工の棟梁、久五郎)が、安兵衛の帰りを待ち侘びていた。

聞いてみれば、本日四ツ半、安兵衛の叔父菅野六郎左衛門と、六郎左衛門と日頃不仲の村上庄左衛門が高田馬場で決闘するという。
そして儂に万一の事あれば後事を頼むという、叔父六郎左衛門の伝言であった。

去る二月七日、藩の支配頭の邸で出会った村上庄左衛門から、菅野老人が口汚くののしられ(一説に囲碁の上での諍いという)、その場は仲裁人があって事無く済んだが、この事を根に持った庄左衛門、三郎左衛門の兄弟が、菅野老人に果たし状を届けたという。

即座に安兵衛は矢立の筆を取り、
「拙者叔父事、仔細あって本日高田馬場に於いて果し合い致し候に付き、見届けの為罷り越す。無事に立ち帰りなば年来の御厚情、その節御礼申し述ぶべく候。」
と大書したのを壁に貼り付け、(ここで安兵衛の帰りを待っていたのが大家の九五郎だったとしたら、わざわざ壁にそんなものを貼り付けるのはおかしい。)羽織を脱ぎ捨てて高田馬場へ向かった。

高田馬場へ着いてみると、そこはもう黒山の人だかりで、決闘は正にたけなわ。
叔父六郎左衛門は既に体に数ヶ所の疵を蒙り、気息奄々である。
敵は村上庄左衛門、三郎左衛門兄弟。中津川佑範(一説に「範」ではなく「見」)なる薙刀の達人。他に家来が五人の都合八人。(これも一説に、家来だけで七〜八人。)

叔父菅野の方はといえば、叔父の他に若党と草履取りが奮戦しているのみ。
安兵衛は叔父の傍らに駆け寄り、(この時駆け寄る安兵衛を阻もうと、中津川門弟両名が安兵衛に向かっていったが、安兵衛の関孫六三本杉で斬られたとか。)「しっかり致されよ。」と声をかけ・・・・・。

と、ここから戦闘の描写をしても、信憑性がないのでよす。
なにせ敵の庄左衛門が腕のみ失ったのか、命を落としたのかすら、私の手持ちの数尠ない資料でも結果が矛盾している始末であるからだ。

(多分)はっきりしているのはその後、叔父六郎左衛門は傷が原因で死亡。
菅野、村上両家共、喧嘩両成敗で知行没収で家族は追放となった事だろう。

安兵衛は、見方によっては叔父の仇を討ったとも考えられる(んだそうだ。)。

周りからは英雄視され、この事が後に赤穂藩浅野家江戸留守居役、堀部弥兵衛金丸に安兵衛が、娘婿として所望されるきっかけになったであろうという見方はけっこう一般的かも。
(なんじゃそりゃ)

(了)

 
とりたてて書くほどの内容ではなかったが、事の序でに、仇討にあんまし関係無いんだけど、メニューに挙げちゃったシリーズとして、もう一例御紹介しよう。
(ページももったいないし。)
 
 
i岩間小熊
 
諸岡一羽という剣客が居た。
一般的には飯崎長威斎の弟子、若しくは塚原卜伝の弟子という。
時期的に前者の説は無理がある。
一羽が生まれた時既に長威斎は死んでいたからである。

「一端流須鑓至極目録」という書によれば、長威斎三世飯崎若狭守盛近の弟子、柏原河内守助友の門人、諸岡左京勝持から学び、後に一羽流を開いたという。
後年は分離して槍術のみが一羽流として伝わっている。

この一羽の弟子に、根岸兎角、岩間小熊、土子泥之助の三人が居た。

一羽は晩年「癩」を患っていたので、兎角は師を捨てて出奔した。
兎角は小田原へ出て微塵流と称していたが、北条氏が滅び、徳川家康が江戸城に封ぜられると、兎角も江戸へ出た。

兎角の噂が江戸崎迄聞こえてくると、文禄二年、小熊は江戸へ出て、「よくも師を捨てたな」とばかりに、江戸城大手の大橋(常盤橋)で兎角と試合をした。

兎角は敗れて堀の中へ落ち、其の儘逐電。
信田朝勝と変名して西国に微塵流を広めた。

小熊の方は、兎角の道場に乗り込み、その儘道場主に収まっていたが、人望がなかったのだろう、兎角の門弟達に騙し討ちに遭い、非業の死を遂げた。

 
須保孫右衛門角長・偏注
「果し合い」というのは、互いに合意の上でやるのであるから、そこで敗れた方の縁者が勝った方を「仇討ち」できない。というか、赦されない。

だが実際、兎角の門弟に小熊が殺された様に、仇討に発展する事も尠なくはなかった。(兎角、小熊時代はどっちにしろ、そんなウルサイ制約はなかったかもしれないが。)