葉隠 


扨「葉隠」であるが、何を書こう。
確かに「葉隠」は全編読破した。したはしたが、実は読破したのは数年前であり、正直、内容とて記憶している訳ではないし、書く事が無い。


構成

しょうがないので、先ずは此の書がどんなもんかを説明しよう。
此の書は、江戸の初期に佐賀藩を隠居した山本神右衛門常朝と云う武士の口述したものを、同藩士(三十三歳だが現役藩士か否かは失念)である田代又左衛門陣基が筆録した物である。
「口述したもの」と云うのは、別に何かの「武士の意気地エピソード」を物語調に語った等と云ったものではなく、例えばだが、
1、武士というものはこうすべきなんだよ。
2、以前はこうだったけど、今はこうだね。
みたいな、少ないので1〜2行の箇条書きが延々と続く形式である。全部で300〜400項目行くんではないか。

書き終えるのに七年を要したと云うだけあって、確かに本文が長い。('A`)ウエーン
長いだけなら未だしも、七年もかかっているから、読んでいくと、
「あれ?どっかで聞いた様な話だな?」
と云う記事に出会す。
前に口述した事を忘れて、暫くしてもう一度同じ話をしてやんのである。

これは私の推測に過ぎないが、山本氏の口述を田代氏が筆録した状況と云うのは、実は田代氏が山本氏の隠居所(庵)を訪れて、山本氏の愚痴を唯ダラダラと聴いて居ただけの話だったんではなかろうか。
老人というのは同じ話を繰り返す傾向が有る。
田代氏も「これは以前聞いたな」と気付いた話は聞き流して居た積りだったろうが、七年も是が続くと却々に難しくなって来よう。うっかり同じ話を書き留めてしまうのも頷ける話だが、まあそんな事はどうでもいい。


非常識な本
其の内容に関しては毀誉褒貶様々だが、余り快く思わぬ向きからの書評を例にとると、例えば同書の中で一番有名な文句である、
「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」
と云う一文が有るが、「武士道」と云う語自体の定義からして難癖を付けてみるなんというのは能く有る話だ。

或いは此の、
「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」
の様な過激さを感じさせる文章、例えば「気違い」「死狂い」等の表現が文中に多用されている事から、
「此の書は異常であって、普通の武士の考え方ではない」
と云った様な批判も多い。
同じ佐賀出身の大隈重信も、此の書を評して「奇異なる書」「奇妙なる経典」と言ったらしいが、併しまあ、どうなんだろう。
「葉隠」を読んでみても、今に残る江戸期の武士の種々のエピソードと比較して、左程おかしな事が書いてあるとも思えないのだが。

「葉隠」のコンテンツを作ったはいいが、別段書く事も無いので、此処では、一般に思われる江戸期武士のイメージと「葉隠」的思想に、そんなに違いが有るとは思えねえんだけどなぁと云う私の思いを、めんどくさいので資料を調べもせず、例を引くのも二、三の例に止め、紹介する様な事例の出典が何なのかも明らかにせず、あやふやな記憶に頼り乍ら、いい加減な思い込みのみで書いてみたい。


江戸期の「死に急ぎ」
江戸も「太平」の状態で三百年続いた訳だから、其の間皆がみな古武士の気概を維持して生きていた訳では確かにあるまいし、「死に場所を探す」だとか「死に際を常に考えて」とかいう理想論を本気で肝に銘じている人間の割合が、江戸初期と較べて減少していったであろう事は想像に難くは無いのは確かだ。大隈重信頃の時代なら猶更か。

だとすれば、こうした内容の書を「ナンセンス」と見る現実主義者も大勢を占めていて不思議は有るまいが、一方で時代が下ってもこういう「葉隠」的考え方を「武士の嗜み」、或いは少なくとも「理想の武士像」として捉える考え方も、多くの武士が持っていたんではなかろうかと思わせる様な江戸期のエピソードも、チラホラ散見する様な気もせぬでは無いのも事実だ。
この考え方が拙サイトの主題とする「太平の時代の武士の意気地」であり、拙サイトのテーマの骨子なのである。

物ぐさな私は、江戸期にも有ったであろう「葉隠」然とした意気地エピソードをイチイチ調べて例を挙げたりはしないが、パッと思い付く大きな事件を例に挙げれば、島原の乱であったり、元禄の赤穂事件であったり、それこそ最後の最後の戊辰の役であったりと、各々の事件の渦中に在る武士の行動一つ一つを拾っていけば、太平の世に在って猶死に急ぐ武士達の例は比較的容易に見つける事が出来る事と思う。(尤も、「葉隠」の成立自体が「赤穂事件」より後なのだが)
其の他にも、ポルトガル船来航の際に自分から死を願い出た、つまり「打死にニ而も仕り」「此度一命を捨てたき」「命を捨て申すべき」「私事は命を捨て候間」「討ち死に仕るべく」「死に申さず候てはなり申さず」等の文言が見える手紙乃至は記録も少なからず見られる様だ。

但し、「葉隠然とした」エピソードと書いたが、江戸期に無数に有ったであろう吾人から見て「さてこそ武家ら敷き」武張ったエピソードも、厳密な意味で「葉隠」と同様の価値観で行われた行為であるかどうかとなると、確かに議論の余地が有るかも知れない。
例えば江戸期の武士の行動を起こす動機のひとつには「世間体」と云ったものが絡むケースは多かろう。

「葉隠」の論調は「戦国期〜江戸初期の武士はこうあったものだ」と云ったニュアンスで書いてある(んだと思った)が、「葉隠」の理想とする戦国期〜江戸初期の武士の所業と、世間体を慮って行動する江戸期真っ只中の武士の所業の間に、其の意味では行動原理に大きな違いが有ると確かに言えなくも無いのかも知れない。

だが大筋で、少なくとも現代人の私から見れば「衆道の為」とか、「捨て置かば武士の一分相立ち申さず」とかいった理由で刃傷に及ぶ。「義によって助太刀致」す。「腹掻っ捌いて」御諌め申し上ぐる、身の証を立てる、追腹を切る、無念を表明する、他人の罪を被る等々の江戸期のエピソードは、「葉隠」の謂わんとする処と左程違ったものには思えないのだが。

「腹掻っ捌いて他人の罪を被る」ケースとしては、「主君が江戸表から御咎めを受けぬ様、主君に累を及ぼさぬ様」身代わりに腹を切るなどと云う話も聞く(気がする)。
「戦国期は主君を裏切る様な話が日常茶飯で、死ぬ位なら主君を乗り換える事も辞さない輩が多かった」
等と云う研究者の説を読んだ事がある(気がする)が、それで言えば、江戸期の武士の方が「己を律する力」としては戦国期の武士より寧ろ優れていると云うか、換言すれば、主君(時には碌でも無い)の為に、又他人の為に命を捨てる江戸期武士の行動原理(論理)の方が、
「他人の為に死ぬ位なら主君を乗り換える」
と云ったノリの人間が多かったと云う戦国期の武士から見れば、余程「死狂い」に見えそうで、「葉隠」思想を異常扱いする江戸武士の方が、よっぽど異常者であると云う様な見方も出来よう。


同時期の過激な本
1687年刊行の井原西鶴「武道伝来記」は創作であるが、衆道の為に血を見る様な話等、それこそ「江戸武士の意気地」咄が多い。(全部読んでないけど)
「武道伝来記」の内容に関して、近代初期の研究者の間では、
「こんな無茶苦茶な武士はいねえだろう」
と内容に懐疑的だったらしいが、研究が進むと、
「そんな事もねえんじゃねえか。意外と当時の武士をよく捉えているかもよ」
と云った見解も出て来た様だ。
つまり西鶴らの時代に生きた人間には、こういう血腥い話がイコール武士のイメージであったと云って差し支えないと云う事だろう。

「武道初心集」は1639〜1730年の間に書かれた(つまり「葉隠」と相前後した時期に成立している)が、「武士の癖にいつ迄も長生きしようと思うから奉公をいい加減に勤めたりするんだ」「強盗も場合によっちゃいいけれど」等と過激な発言が有る。
特に「武道初心集」は「『葉隠』と内容が酷似する」等と評されるが、「葉隠が異常な本」であるなら、内容が酷似する様な「異常な考え方」の本が、佐賀とは全く別の國(越前)で成立するというのもおかしかろう。
「葉隠」が日本各地の武士の「理想の手引書」になったから「武道初心集」やら、創作の「武道伝来記」が出来たと云うなら話は別だが。

併し「葉隠」は、「藩政の此処がおかしい」だとか「何の何某は駄目だ」と云った内容が多い為に秘書扱いされた様で、佐賀鍋島藩でも幕末の藩主主催の読書会で初めて陽の目を見たらしく、それから明治初期にかけて公開されたが、それでも猶閲覧可能なのは佐賀内の人間に限られており、県外の人間にも広く知られる端緒となった本が発行されたのは実に明治三十九年の事だというから、江戸期の真っ只中に全国の武士が参考書として閲覧出来る訳が無い。

なのに町人である(?)井原西鶴が「武道伝来記」で江戸期の武士のイメージを象徴的に描写した結果出来た作品が「血を見る」様な内容であり、越前藩で「武道初心集」が成立し、其の他全国各地で「意気地」を通す為に死に急いだ武士のエピソードが数多残っている事実があるのは何故かと云えば、矢張り江戸期全般を通して、尠くとも「武士は斯く在るべき」と云う理想論として、「葉隠」と似たり寄ったりな思想が一般的に受け入れられていたからなのではないのだろうか。


「士道」と「武士道」
ところで江戸期に一般に受け入れられていた武士の思想は、建前としては「士道」であったと云う。「士道」と「武士道」とは何が違うのか。

言う迄も無く「武士道」等と云う言葉の定義は、各時代の武士各々によって様々であろうから、「こっから此処迄が武士道だよ」なんて事は言えまいが、飽く迄、飽く迄ですよ?飽く迄一般的な言葉のイメージで捉える「武士道」と云うのは、所謂「戦国の風」に倣った武士の採るべき道の事であると考えても、さのみ過言ではあるまい。

ところが一方の士道と云うのは、江戸期に入って封建社会が瓦解しない様に為政者の立場から儒教を元に作った思想である。
無論「士道」と云ったって、論者によって定義に微妙な相違点が生じようから、「これが士道です♡」とは、是も言えまいが、大まかに言って、道徳性に比重を置いた考え方であって、戦国風の「武士道」とは、言葉遊びの様であるが、実際はまるで違ったものと考えても良かろうと思う。

寧ろ、為政者側に身を置く儒者達からすれば、「仇討」だの「遺恨」だのでイチイチ刃傷に及ばれては困る訳である。
「事故だとか病気なんかで人間何時なんどき死ぬか判らないから、常に『死』を念頭に置くという事を、その日その日を一所懸命お勤めする心懸けとして認識するならいいが、意地の為に死んだり殺したりと云う意味で『死』を念頭に置くのは駄目よ」
と云う事だろう。

是は「武道初心集」の、
「惣而人間の命をば夕べの露あしたの霜になぞらへ随分はかなき物に致し置候中にも殊更危きは武士の身命にて候を人々心すましにいつ迄も長生を仕る了簡なるに依て主君へも末長き御奉公親々への孝養も末久き義也と存るから事起りて主君へも不奉公を仕り・・・・」
とは明らかに意味合いが異なる。
何故武士の命だけが「殊更」危ういのかと云う点。
亦、「士道」の謂う様な、
「安易に死に走るのは武士の採るべき道ではなく、死を念頭に置きながらも如何に生きるかを追求する」
と云う言い方ではなく、 
「いつまでも長生きしようと思ってんじゃねえよ」
と云った身も蓋も無いニュアンスである点。

為政者の側からは、そうした「士道」思想を元に教育を行う事で社会の安定を図ろうとしたのだろう。其の為だろうが、1834年(?)に松代藩で再編された「武道初心集・松代版」には、先に挙げた「これこれの状況なら強盗したっていい様な気もするが」と云った意味の部分が見事に欠落しているのである。藩の儒者が再編に際してカットしてしまったものだろう。

が、他方、「武士」と云う階級が何百年も続いている以上、武士の間では自然、「武士とは斯く在るべき」と云う伝統の様な思想が連綿と残っていても不思議ではなく、それこそ中世〜戦国期の武士の武勇譚が巷間に肯定的に伝えられていれば、朱子学を基にした「士道」の思想を受け容れ乍らも猶「戦国風」を理想とする思想が残り続けていてもおかしからぬ事ではある。

「士道」の思想を受け容れ乍らも猶「戦国風」を理想とすると云う事に加え、其処に世間体やら損得勘定やらも絡んでくる辺りが、先に言った「江戸期の武士が厳密に戦国風と同様の行動原理で動いているかどうかは議論の余地有り」と云う事であるのだが、尠くとも思想の底流には「武士道」的価値観が残っていたからこそ、江戸期の武士が「いかさま武家らしき」と嘆息させ得るエピソードを残せ得たと言えるのではないだろうか。
其の点からして、「葉隠」的思想は江戸期、決して異常な思想等ではなかったと思えるのである。
(了)


(おまけ咄)
能く歴史系サイトの掲示板なぞを廻っていると、「士道不覚悟でした」等と発言する方があるが、どうも気味の悪い言い回しである。
「士道」だけなら未だしも「不覚悟」とセットで使う辺り、何かの小説で憶えた言葉だろうか。皆が読みそうなのは池波正太郎っぽいから、何となく其の辺りの小説から得た知識なんじゃないかと思ったりするが、私は池波正太郎を読まないので全くの憶測である。
兎も角も、此の言葉を万一御使用の砌には、其の場合に其の用法で本当にいいのか?と云う様な疑わしい使い方をされぬ様、御注意召され度い。


(参考)岩波文庫版
葉隠(上)
葉隠(中)
葉隠(下)
兎も角、御一読。 

「武士道とは」に戻る 
ホームに戻る