武道初心集

大道寺友山と武道初心集
「武道初心集」は、大道寺重祐(孫九郎。老いて友山と号す。)の著になる。

友山は元々山城伏見の人である。父の繁久が慶長七年(1603)幕命を受けて越後侯徳川忠輝に仕えた。
(此の邊りが意味不明。友山は此の時点では生れていない筈である。原文を見てみると、「大道寺重祐は孫九郎と称し老いて友山と号す山城伏見の人なり祖直繁父繁久慶長七年幕命を受けて越後侯徳川忠輝に仕ふ重祐長ずるに及びて故郷を去り・・・」どう受取ってよいのか分からないが、「山城伏見の人だった」のは、「祖直繁」という意味だろうか。因みに友山の没年から逆算すれば、渠の生まれたのは1639年(寛永15)である。)

長ずるに及んで故郷を去り、武城に来たりて小畑景憲、北条氏長に随い、且つ遠山信景、大原徳、山鹿高祐に学んで・・・とあるが、儒教か何かを学んだのか。

壮年にして浅野家に寄寓。次いで会津侯の客となるが、疎んぜられて武州岩渕に屏居。晩年越前侯の招きに応じて賓客となり、恩遇甚だ厚かった。

其の人となりは節倹剛直にして大度あり。忠信を主とし、義命を知り善く衆を容れ、平日歌を詠じたという。

著書に「岩淵夜話落穂集」。また大将傅五臣論を述べた遺稿等が多い。
寿星(南極老人星。二十八宿の内の角と亢)像等も自分で彫った様だ。

享保十五年(1731)病んで江戸に死す。享年九十二。

「武道初心集」が、友山が幾つの時の著作になるかは不明であるが、其の著作生活は概ね晩年に行われた様であるので、この本も晩年の作であるかも知れない。

それに就いて、一つ逸話がある。

幕末の越前福井藩主松平慶永公は、田安家から迎えられて封を襲いだ人であるが、歳十六にして初めて江戸を発して入国するにあたり、兼ねて敬慕してやまなかった水戸烈公に、藩主としての心得に就き九条目を挙げて教えを乞うた。

烈公は其の一々に対し丁寧適切な忠告を与えたが、其の内の第三条、
「武道修練の事並に家中の者武道に向ひ候様引立方心得の事」
に対する応えは次の如くであった。

武士道の穿鑿については、お宅んトコの武道初心集などに実に感じ入って居り、拙家にては城中番所番所に具足を預けておき、長い勤務時間を居眠りなんかしているよりはと、折々着用させていた処でしたが、近日、経書並びに右武道初心集を一部、番所番所へ預けて置いたんですよ。
小さな事ですが、お宅様んトコで出来あがった本の事ですんで、まあ、ちょっと言ってみたかっただけでちゅ。

「お宅様んトコで出来上がった(御家中にて出来候)本」というのは、言う迄も無く武道初心集であり、これは友山が晩年、越前侯に迎え入れられていた時期を指しているものと思われるのである。
武道初心集が、越前侯の元に居る間に友山が著したと暗に言っている訳だが、水戸烈公とて確信があって申されたのではなく、推測で申されたのだろうが、重要なのは、武道初心集が水戸烈侯の推薦に値したという名誉である。
この事からも、武道初心集の中に記されている言葉が、本物の武士に、理想として参考にされるに足る内容であった事が覗えよう。

それから読むにあたって、ひとつ注意を要するのは、「武道初心集」で言う「武道」というのは、現今で言う、謂わば「武術道」の意味合いではなく、「武士道」の意味であるという事である。

こうした違いは、文献の書かれた時代の違いによって生ずる。
例えば「男」という言葉の意味についても、時代によって侍と同義であったり、時代が下ると侠客風の人間を指す様にもなる。

同じ様に、この時代(地域差もあるかも知れない)、尠なくとも「武道初心集」の「武道」は、吾人の言う「武士道」の事であるのは明らかである。

 
書くにあたって
武道初心集という本は、実はオリジナルヴァージョンと、松代藩で成立した「松代ヴァージョン」がある。

どうして松代藩で成立したかというと、めんどくさいので説明は省く。

この「松代ヴァージョン」というのは、どうも友山自身の思想的な内容を省いてあったり、オリジナルヴァージョンと較べて欠落している箇所がある様なので、今回はオリジナルの方をテキストにしたい。

しかし恐らくはネット史上初であろう、「武道初心集」全五十六項目を全文紹介しようと言う、馬鹿な真似を私はやろうとしているが、読んでくれなくてもいいや♪という開き直りと、意地でやってしまおう。

文章は私が訳してしまおう。
現代語訳する上で、偶に意味不明の箇所があったら、取敢えず想像で訳してみるが、不明な箇所の原文を其の直ぐ後に記しておくので、各々解釈して戴きたい。

それから、現代では不適切な表現も、原文の歴史性に鑑み、其の儘ばしばしがんがん使っていく事とした。

読むと長くて飽きるし、「そんな時間あるか!」という向きもあろうかと思うので、読んで下さるにしても、一日一章ずつ位のペースで、ネットに繋いだ序でとか、どぉ〜〜しても暇な時とかに読んで戴きたい。

尚、文章中殆どギャグじゃないかと思われる箇所があるが、別に私が脚色した訳ではないので。念の為。

 
武道初心集
 
 
武士たる者は、正月元日の餅を祝うからと箸を取り)めてから其の年の大晦日の夕に到る迄、日々夜々死を常に心に留めるという事を以って、本意の第一とするべきである。

死をさえ心に留めておけば、忠孝の二つの道にも適い、萬の悪事・災難をも遁れ、其の身は無病息災にして寿命長久に。
剰え、其の人柄迄もよろしくなり、其の徳は多いのである。

其の理由はというと、よく人間の命を夕べの露、朝の霜になぞらえ、随分はかないものの様にいう中にも、一番短命なのは武士の身命であるべきところを、実際そこら辺の人々(武士)は、臆面も無く(己が心すましに)何時迄も長生きをしようなんという了簡であるから、主君への末永い御奉公、親への孝養もどうせ長く続くんだろうと思っているから(「から」が二度続いておかしいが、そうかいてあるんだもん!)余計な馬鹿をやって、主君へも不奉公をし、親への孝行も疎略になる。

今日あっても、明日はどうなるか分からない身命とさえ覚悟していれば、主君へも今日を奉公の致しおさめ、親に仕えるのも今日を限りと思えばこそ、主君の御前へ罷り出でて御用を承るにしても、親の顔を見上げるにしても、「是を限りと罷り成る事も・・・。」と」思う様な心になる事で、主や親へも真実の思い入れとする様にしなくてはならない。
それだから忠孝の二つの道にも適うと言ったのである。

扨、死を忘れて油断する心から、物事に慎み無く、人の気に障る事なんかを言って口論に及び、聞き捨てりゃあ済む事をも聞き咎めていちいち突っかかっていき、或いは益も無いのに遊山物見の場所なんかに行って、人ごみの中だっつってもよしゃあいいのに歩き廻って、何処の馬の骨ともわからん馬鹿者等に因縁つけられて喧嘩に及んで命を落とし、挙句に主君の御名を出したりなんかしたもんだから、親兄弟に迷惑を掛けた・・・なんていうのも、みんな常に死を心に留めぬ油断より起こる災いである。

死を常に心に留めている時は、人に物を言うのも、人に返答するのも、武士であるからには一言一言を慎重に選ぶのは大事な事だと心得る事で、訳も無く口論等せずに済み、勿論下手な場所へは、人に誘われても行かないから、不慮の首尾に出合う事も無い。
この事から、萬の悪事・災難をも遁れる事が出来るといえるのである。

高貴な人も賤しい人も、死を忘れるから過食・大酒・淫乱等の不養生をして脾臓・腎臓の疾患なんかを生じ、思いの外に若死にをして・・・譬え存命であっても、何の役にも立たない様な病人と成り果てるのだ。

死を常に心に留めている時は、実際年齢よりも肉体の年齢が若く、無病息災だと言っても、日常から補養の心構えを持ち、飲食に節制をし、色の道を遠ざける等、嗜み慎む故に肉体のタフさが保たれるのだ。
だから無病息災で、寿命迄も長久になると言ったのだ。

其の上、死をまだ先の事の様に思っている状態では、この世に長く逗留するとの認識があるから、色々望みも出て来て慾深くなって、人の物といえば欲しがり、自分の物は惜しみ、悉皆町人百姓と同じ様な根性になるのだ。

死を常に心に留めている時は世の中が味気なく感じるから、貪欲な心も自ずから薄くなり、欲しい・惜しいというムサい根性も、それ程頭を擡げない道理である。
であるから、其の人柄迄もよろしくなると言ったのである。

但しである。死を如何に心に留めるとはいえ、吉田の兼好が徒然草に書いている「心戒」なる比丘尼の様に、二六時中死期を俟つ心で唯蹲っているだけみたいなのは、出家沙門が心に死を留める修行としてはいいかも知れないが、武者修業の本意に適うかというと、そうではない。

そういう形で死をあてこんでいては、主君・親への忠孝の道も廃り、武士の家業も缺(欠)け果ててしまうから、大いによろしくない。

昼夜を問わず公私の諸用をこなし、ちょっとでも身に暇が出来てゆっくりしている時は死の一字を思い出し、懈怠無く心に留めて置けという事だ。

楠正成が子息正行に教えた言葉にも、「常に死をならへ」とあるのを伝え聞いている。初心の武士心得の為、件の如し。

 
武士たる者は行住坐臥二六時中警戒心を研ぎ澄ましておく事が肝要である。
我が国は海外の国々と違い、どれ程身分の低い町人・百姓・職人躰の人間であっても、身分相応に錆び脇差の一腰づつも携行している。
是は日本武国の風俗であって、万代不易の神道である。

そうは言っても、三民は武を家業とはしていない。
武門に於いては、譬え末端の小者・中間・あらし子の類いに到る迄、常に脇差を放してはならない作法が定まっている。
況や侍以上の輩としては、即時の間にも腰に刃物を絶やしてはならない様になっている。

随って心懸け深い武士は常に、譬えば入浴する際にも刃引き刀、或いは木刀等を用意して置くというのも、セキュリティを心懸ける故からである。
自宅でさえもそういう心懸けでいる以上、況してや外出する際には、往還の道すがらであるとか、目的地に於いても気違い・酔狂人・或いはどんな馬鹿者に出会って不測の事態が生じる可能性もないではないという心懸けは必要なのである。
古人の詞にも、「門を出るより敵を見るが如く」なんていうのがある程だ。

其の身が武士として腰に刀剣を帯びているからには、即時の間も危機意識を忘れ様筈も無い。
危機意識を忘れずにいれば、自ずから「死を心に留めている事」の本質に通ずる事に成るのである。(一度修正したけど、やっぱり意味不明)
(原文は[勝負の気を忘れざる時は、おのづから死を心にあつるの實にも相叶ふ也]
死を心にあつるの實」を、訳者はどうしても
『死を心に留めていて得られる「効果」という本質』
という混乱を招く様な意味合いに訳したくて仕方が無いのであった。)

腰に刀剣を差し挟み乍らも、危機意識を常に持たない侍は、武士の皮をかぶった町人・百姓に少しも違いが無い様に思える。
初心の武士の心得の為、仍って件の如し。

 
武士たる者は三民の上に立って書を取る職分であるからには、学問等を通して広く物事の道理を弁えていないと勤まらない。

そうは言っても、乱世の武士の場合だと、15,6歳にもなれば必ず初陣に立って、一騎役なりとも勤めなくてはならないから、12,3歳にもなると馬に乗り、弓を射、鉄砲をぶっ放し、其の他一切の武藝をマスターしておかなければいけないので、見台に向かって書物を開き、筆を執る様な暇は殆ど無いから、自ずから無学文盲になって、一文字を引く事さえままならない様な武士は戦国時代には幾らでも居たけれども、あながち本人の不心懸けとも、親の躾が悪いとも言えない。
戦闘技術に精通する事が当用される近道と考えられていた故である。

だからといって、天下静謐の世に生まれた武士だから武道の心懸けを疎略にしてもいいと言っているんじゃないけれども、乱世の武士の様に15,6歳からはどうしても初陣に立たなくてはならないという様な世の中じゃないんだから、10歳位になったら四書五経七書等の勉強をさせ、手習いなんかもして物を憶える様にと油断無く教育し、扨15,6歳にもなる頃には体も出来、体力も付いてくるのに随って、弓射・乗馬その他一切の武藝に習熟させる様にするのが、治世に於ける武士の子の育て様であるべきだ。

前述した乱世の武士の文盲にはそれなりのいい訳もきくが、治世下での武士の無筆文盲のいい訳はし難い。
但し子供であれば、若年でもあるのでそれ程咎める事も無い。一概に親の油断・不調法ばかりが原因とは言えない。畢竟、子の愛し方を知らない故である。
(何のこっちゃ?以下原文・・・偏に親々の油断不調法とならでは不被申候畢竟子を愛するの道をしらざるが故也)
初心の武士心得の為、仍って件の如し。

   
武士たる者は、親への孝養を厚くする事を第一義とすべきである。
譬え自分の利発さ、才覚が人より優れていて、弁舌も立ち、器量も良く生まれていても、親不孝の人間は何の役にも立たないのである。

理由を言おう。武士道というのは、其の本末を知って正しく行うのを肝要と認識すべきものである。本末の弁えなければ、義理を知るべくもないのである。
義理を知らぬ者を武士とは言い難い。

扨、本末を知るという事についてであるが、親というのは自分の発生源であって、自分の体は親の骨肉の末である。(須保孫右衛門角長注・「山岡鉄舟」の項参照)
然るに、其の末である我が身が立身させようと思うから、余計な事態を生じて根本たる親を疎略にしてしまう事になるのだ。
これは本末を弁えない故である。

且つ亦、親に孝養を尽くすのにも二段階ある。
譬えば親が正直者で、誠に子を愛して教育を熱心にし、其の上普通じゃ其処迄貰えねえよという位の知行高に加え、武具・馬具・家財等に至る迄何の不足も無く、いい嫁さん迄とり迎えて、何不自由無い家督を譲ってあげて、隠居の身となって引っ込んだ親等へは、其の子としてそんじょそこら程度のの孝養を尽くす位では、何の褒めどころも感じどころもさらさら無い。

理由を言おう。全くの他人でさえ、御互いに友情を深め合って昵懇になり、こちらの身の上・勝手向きの事までも親身になって心配して兎や角世話を焼いてくれる様な人に対しては、こちらも大切に思って、「たとへ手前の事を差置きても其人の用ならば」と思ってしまうものだ。

況や自分の親が、親として慈愛たっぷり、親として出来る事を全てやってくれた・・・なんて場合、子供としては、どれ程孝養に尽力したところで、「是にて事足れり」と思える筈はないのである。
この点を以って、そんじょそこら程度のの孝養を尽くす位では、何の褒めどころも感じどころもさらさら無い。と言ったのである。

もし親が根性が悪くて、剰え年をとって僻みっぽくなって、くだらぬ理屈だてばかりをし、自分の財産を全部子供にくれた訳でもなく、決して楽な生活状態とはいえない子供の厄介になって面倒を見て貰っているのに満足すべきところを、其の弁えも無く、朝夕の飲み物・食い物・衣類に迄もケチをつけ、剰え他人に会うと、「倅めが不孝奴なれば老後に存よらぬ苦労を仕思召の外迷惑いたす」等と触れ回って、吾が子の外聞を失う事を何とも思わない様な、思い違いをした親。

こういう親に対しても親と崇め、取りたくもない機嫌を取り、只管に親の老衰を悲しみ嘆いて、少しも手を抜かずに孝養の誠を尽くす様のを、孝子の本意というのである。

こういう根性を持った武士は、譬え主君をとり、奉公の身となっても、忠義の道をよく弁えるから、主君が御威勢盛んな時は申すに及ばず、譬え御身の上に不慮の事があって難儀千万となられた時にも、猶以って誠の忠を励まし、味方百騎が十騎に、十騎が一騎になる迄も御側を離れず、幾度となく敵の矢面に立ちふさがって身命を省みないという様な軍忠を勤めるものである。

理由は、親と主と孝と忠という名前の変わるだけであって、心の信に二つはないからである。
であるから、古人の詞にも、「忠臣は孝子の門に求めよ」と、こうあるとか。

譬え親へこそ不孝だけれども、主君への忠貞は格別であるという様な事は、決して無い道理であるに決まっている!(須保孫右衛門角長、注・強引だなぁ・・。)
自分の身の根本たる親へさえ孝を尽くす事が出来無い様な未熟な心を以って、天倫にあらざる主君の恩義を感じて忠節を尽くす等という事が出来る訳はサラサラ無いのである。

家に在って親に不孝の子は、外へ出て主君を取り、奉公する事になったとしても、(以下、自信が無いので原文)
主君のゑりもとに目を付少にても左まへになり給ふとみては頓而志を變じつば際に成ては矢間をくヽ¨り或は敵へ内通降参の不義を仕るとあるは古今の定まり事也。恥つヽしむべき所也。初心の武士心得の爲、仍って件の如し。

   
武士たらん者は、義・不義の二つをとくと会得し、専ら義を務めて不義の行跡を慎むべきであるとさえ覚悟していれば、武士道は立つものである。義、不義とは善悪の二つであって、義は即、善。不義は即、悪である。

凡そ人として善悪、、義不義の弁えが無いという事は無いけれども、人に義を行い、義に進む事は窮屈で面倒に思われ、不義を行い、悪を為す事は面白く、楽である事から、ひたすら不義・悪事の方へのみ流されて、義を行い、善に進む事は嫌になるのである。

知的な障害などがあって、善悪・義不義の弁えが出来無いというなら別だが、自分で不義の悪事であると自覚していながら、義理を違えて不義を行うというのは武士の意地にあらず、近頃未練の至りである。
基本的に辛抱強さというものが足りないからそういう事になるのだとも言えそうだ。(基本は物に堪忍情の薄きが故共可申候)

堪忍情が薄いと言えば、少しは聞こえはいいが、深層心理の奥底を辿れば、結局それは臆病が原因で起こる不義だと分析して良いであろう。
であるから、常に武士は不義を慎み、義に随う事が肝要だと言うのである。

且つ又、義を行うのに三パターンの状況を想定する事が出来る。
譬えば親しい人間と同道して余所へ行く場合、其の連れの人間が百両の金子を持参して来ていて、
「是を懐中致しありくも苦労に候間後刻罷帰候迄爰許に預け置度」
と言うので、其の金子を受取り人の知らぬ様にしておいて(ん?其金子を請取人の不存如く致し置きて・・・・・要はこちらが預かったという事か。)、目的地にて件の連れの者が食中毒、亦は脳卒中の後の下半身不随等を発症し、其の儘急死してしまった等という時、こちらが金を預かったという事実を知る者は存在しなくなる訳である。
そんな時、
「扨も笑止なる仕合かな」
と、相手を悼む心以外に毛頭邪念も無く、先に預かった金子を、其の者の親類縁者等へ状況を説明して可及的速やかに返還する・・・・なんという人間は、誠によく義を行う人だと言える。

二パターン目として、
「右の金主とても大躰の知人迄にてさのみ入魂と申あいさつにも無之預りたる金子の義を外に知たる者もなければ何方より問尋有べき事にもあらず折しも我手前も不如意なれば幸の義也是は沙汰なしに致し置ても苦しかるまじき物か」
と邪念が頭を擡げかけるのを、
「フッ、扨もむさき意地出たる物かな」
と、我と我が心を見限り、強い意思を以って思い直し、件の金子を返す様な人間は、「心に恥じて義を行う人」というのである。

三パターン目として、先に金を預った事を、妻子や召使の中の誰か一人でも知っているという場合、その人物が自分の事をどう思うだろうか。後日訴えられでもしたら堪らない・・・とばかりに、其の金を返す様な人間は、「人を恥じて義を行う人」というのである。
このタイプの人間は、金を預った事を知る人間が全く居なかったらどんなモンかと、ちょっと心許無い様子ながら、これもまた「義を知りて行う人」ではないとも言い難い。

惣じて義を行う修行の心得というものは、自分の妻子、召使をはじめ、親しい人間が自分の事をどう思うかという事を第一に考え慎み、そこから対象を広げて他人の譏り嘲りを気に掛けて、不義を為さず、義を行う様に心掛けていれば、自然とそれが癖になって、後々は義に随う事を好み、不義を嫌う様な意地合い、心だてとなっていくのは必定である。

扨亦、武勇の道に於いても、戦場に臨み、生まれつきの勇者というのは、どれ程矢や銃弾の激しく飛来する場所をも何とも思わず、忠と義の二つを兼ね備える其の身を的になして進みゆき、心の勇気は表面に顕れるものであるから、その行動の見事さを、兎角賞賛される様な事もあるものだ。

又、人によっては、
「扨もあぶなき事哉是はいかゞ致してよからん」
と心臓バクバク、膝も少しはガタガタになるとはいっても、
「人もゆけばこそ行中に一人ゆかずしては味方の諸人の見るめもあれば後日に至りて口のきかれぬ所也」
と、しょうがなく決心して、件の勇者と並んで進みゆくという様な者も居る。

先の生まれつきの勇者と較べては遥かに劣る様ではあるけれども、この者だって何度もそうした経験を積めば、後々は冷静沈着に行動できる様になり、生まれつきの勇者にもさして劣らない様な、武備誉れの剛の武士とならない訳はない。
然れば、義を行い、勇を励む様になるには、兎に角常に恥を知るという心得でいる事以外には無いんだそうだ。(無之候由)

人が、
「不義(な事だからよせ)」
と制しても、
「大事なし」
と言って不義を行い、
「(悪事を制止する人間に対して)扨も腰ぬけかな」
と馬鹿にし、
「笑はゞわらへ大事なし」
と言って臆病(文頭参照。不義=臆病の為せる業である。)を働く様な者には、何を教えてもしょうがない。
初心の武士心得の爲、仍って件の如し。

 
武士道の学問というものは、「内心に道を修し、外かたちに法をたもつ」という事以外にはない。

心に道を修するというのは、武士道正義正法の理に従って事を行い、毛頭も不義邪道の方向へ行かない様心得る事である。
猶又、道とは何かについてを、聖賢(孔子の事か?)の経典に明るい人に会って詳細に学ぶのも良い事である。

扨又、形に法を保つという事には、二法四段の仔細がある。
二法とは、「常法變法」である。
常法の内に「士法兵法」があり、變法の内に「軍法戦法」があって、都合四段である。

先ず士法というのは、朝夕手足を洗い風呂に入って体を清潔にし、毎日早朝に髪を結い、節々月額をも致し、時節に応じた礼服を着用し、刀・脇差なんかは申すに及ばず、たとい寒中たりとも腰に扇子を絶やさず、客の応対をする時は、先方の尊卑に随って相当の礼儀を盡くし、余計な言動を慎み、たとい一椀の飯を食い、一服の茶をすするにしても、其の仕草が拙くならない様にと油断無く是を嗜み、自分が奉公人であるならば、非番休息の時にボケーッとしていないで、本でも読んで物を憶え、その他武家の古實古法に至る迄、是を心に懸け、行住坐臥の行儀作法も、
「流石武士かな」
と見られる様にしておく事である。

次に兵法というのは、如何に士法上で「言う事無し」であっても、武士として兵員の用い方に不練達であってはいけないので、腰刀を抜いての勝負の仕方を覚える事を以って兵法の最初と致し、或いは鑓を使い、馬に乗り、弓を射、射撃訓練をし、其の他何でも武藝とさえあれば好きになって稽古をし、手錬を極めて其の身の覚悟とする事である。(兵員の用い方の方はどうなったのだ?)

前述の「士法兵法」の二段の修行さえ調えば、常法に於いては何の不足も無くなるので、大躰の人の目には、
「扨もよき武士かなよき仕ひ料かな」
と見えるのだ。

然りと雖も、武士は元々「變の役人」である。
「變」とは、世の騒動である。左様の砌は、「甲冑礼なし」と言って、日々の士法を暫く取り置き、いつもは御主君様・殿様等と御呼びする御方を「御大将」と御呼びし、家中大小の侍達を「軍兵士卒」等と呼び、上も下も礼服を脱ぎ捨て、身には甲冑を纏い、手に兵杖を携えて敵地に進み向かう状態を指して「軍陣」と言う。
是に関して種々の仕様仕方の習いがあるが、名付けて「軍法」という。これを理解しておかないといけない。

次に「戦法」というのは、敵と遭遇して戦闘を開始する時、味方の配置や攻撃のタイミングなどが図に当った時は勝利を得、それを誤った時には勝利を失い、敗北するのは定まり事である。
その仕様仕方の習い口決めがあるが、それを名付けて「戦法」という。是又理解しておかねばならない。
變法に二段あるというのはこの事である。

この「常法變法」四段の修行成就の武士を指して、「上品の侍」と言うのである。
「常法」の二段ばかりが完璧で、一騎前の勤めに於いては事欠かなくても、「變法」の二段に疎くては、士、大将、者頭、物奉行等の重い役職には不足である。

爰の所を能く分別し、仮にも武士とあるからには「士法兵法」は言うに及ばず、「軍法戦法」の奥秘に至る迄是を修行し、及ばぬ迄も、
「一度上品の士と不罷成しては差置間敷ものを」
という心懸けは肝要である。
初心の武士心付けの爲、仍って件の如し。

 
上古の武士は、「弓馬」といって大身小身共に弓を射、馬に乗ることを以って武藝の最上としたという。

近代(今からすりゃあ近世だけど、当時としちゃあ近代ね。)の武士は、太刀、鎗、扨は馬術を肝要だと思って心懸け、稽古をしている様だ。
其の他、弓、鉄砲、居合、柔等という萬の武藝と共に、若い武士は朝暮の務めとして習い覚える様なのは尤もである。
年寄っては筋骨も弱くなるから、何かを習いたいと思っても思うにまかせないものである。

就中、小身の武士は馬を能く習い、譬え滅茶苦茶身に過ぎた高級馬、又は人に慣れない馬と雖も、これを完全に乗りこなす様でありたいものである。

理由を言うと、乗り心地が良くて姿形も良い馬というのは、第一世間に稀である。
譬え存在したにせよ、大身武士の乗り料になるのがオチであって、小身武士の厩に繋げる可能性は低い。

其の身が馬術にさえ長けておれば、
「是はよき馬なれども過物」
とか又は、癖が強くて人に慣れない様な馬を見立て、馬代を値切って買い求めて乗り料とする時は、何時であっても身上に過ぎた馬ばかり持っている様な事になるものである。
(??其身馬術にさへ達し候へば是はよき馬なれ共過物とか又はくせ抔有て人の手を嫌ふごとくの馬を見立て馬代下直に買求て乗料と致す時はいつとても身上に過たる馬斗持て罷有ごとく有之ものなり)

惣じて馬の毛の色・疵を細かく吟味する等というのは、大身の武士のする事であって、小身の武士は自分の気に入らぬ毛の色の馬でも厭わず、毛に疵があって人が嫌がる馬だって、さのみ嫌う事無く、馬そのものさえ良ければ買い求めてウチに繋いでおくという心得でいるべきだ。

昔、信州村上家の侍大将に、額岩寺といって三百騎ばかりを率いる弓矢巧者の武士がいた。
自分の乗り料・家中の馬共に、世の人の大いに忌み嫌う毛疵と雖も、少しも忌み嫌う事無く、五十騎も百騎も城下の荒野に連れ出して、(隊のメンバー達に先だって)額岩寺が真っ先に進んで原中を縦横十文字に馳せ廻り、馬から落ちるかと思うと其の儘飛び乗り、乗るかと思うと飛び降りる等という事が自由自在に出来るメンバーを、良い乗り手と言って褒め、不達者なのを「馬下手」と沙汰するという訓練を行っていた。

そんな風であるから、甲州武田信玄の家中に於いても、
「信州額岩寺がごとくなる敵へは大物見必遠慮」
という取り沙汰がされていたという。
額岩寺にとって、大なる武道の誉れである。

且つ又、武士が戦場に乗り入れる為の馬は、中の上かん(「上かん」とは「健康で勘が鋭い」という意味なのだとか)にして、丈は一寸〜三寸迄。頭持ちは中頭にて、ともは中のとも。
と申し伝えられているにも拘わらず、小身武士の一匹馬であるという事を忘れて、上かんで大丈の馬を欲しがり、頭持ちはどれ程高さがあろうと満足せず(
?原文・・「頭持はいか程もたかきにあかず」)、「ともは一間とも」等と言って、矢鱈広いのを悦び、(以下不明・「前をとらせんとては」・・・「前を取る」は馬の口取り役が手綱を取る意。随って、「手綱を取らそうとしては」となるのか?)(前足?)の筋肉を伸ばしてしまい(原文・・「うでの筋をのべ」。暴れない様に神経の伝達経路を切断してしまう事だという。)(以下不明・尾をささする・・・尾が刺さる?)と言って尾の筋肉を切り、何の動物だか分からん様な、かたわ馬(神経を切断した馬は、川の中や、陸上でも斜面等で思う様な動きが出来なくなる事を山本勘助が報告している)にして悦んでいる等というのは、悉皆武士道の本意に於いては不案内の不吟味より起こる物數奇である。

理由を言うと、四足の筋肉を伸ばしてしまった馬は、山の長い斜面を歩かせたり、或いは川を渡す時に早い段階で草臥れて役に立たず、尾の筋肉を伸ばした(切ったんじゃないのか?との声も有ろうが、「切った」と「伸ばした」は同じ意味と考えられるのだそうだ。)馬は、溝、掘り切り等を乗り越える時に、決まって「尻がい(「鞦」と書き、馬に荷車を牽かせる時に用いる馬具。)」が外れ易い。
ともの広過ぎるのは、「細道を乗るに宜からず」と、古来より申し伝わるところである。

且つ又、武士の身で馬が好きなのは非常に良い事であるけれども、これにも善悪の二つがある。
説明すると、昔の武士が馬好きをしたのは、有事に際し、具足を着用し、指物を差しているのでは過重負担であり、歩行の余程の達者でもないと移動に支障をきたすので、戦場の駆け引きは馬を用いないと難しかった。なればこその、自分の両足の代わりを務める為の馬なのである。
開戦を知るや、直ちにこの馬に乗って先駆けをして軍忠を抜きん出ようという訳だ。

其の上、馬上にて敵と遭遇して戦闘を繰り広げる場合、次第によっては馬も深手を負って命を落とす様な事も無い訳では無い。
であるから、畜生乍らも不憫の至りであるという心を以って、通常の飼料は勿論、飼料を作る畑の状態にも細心の注意を払うべきだ。

今時の馬好きというのは、90%の人間が持て余す様な癖の強い馬等を、安価で買い求めて其の癖を矯正し、或いは田舎の産の馬等を見出しては是を乗り付け、手入れをして所有しておき、買いたいという者があれば高額で売り付ける事を本意としているから、いつもいつも良い馬を繋いでおく事が出来無いのである。
悉皆、馬喰中次ぎの根性に等しい様子であるから、
(以下不明・一向馬数奇をせぬには劣り也)
初心の武士心得のため、仍って件の如し。

 
忠孝の二つの道は、あながち武士の身の上ばかりに限った事でなく、農工商の三民の上に於いても、父子主従の交わりには忠孝の道を盡くすより他に方法は無い。

だが、百姓・町人・職人等の上には、「平生の行儀作法を正す」という考え方を二の次にして、譬えば子供の立場にある者・家人の立場にある者が親と同座する場合でも、胡座をかいて腕組をし、物を言うのにも手を突く事も無く、下に座っている親に、立ちながら物を言う・・・。
其の他萬事について無礼・無作法であるが、それはそれとして、主や親を如在にせず、大切に思う志の信をさえ盡くしていれば事は済む・・・というのは、是三民の輩の忠孝である。

武士道に於いては、譬え如何程心に忠孝の道を守っていても、形に礼儀を盡くさなければ、忠孝の道に適っているとは全く(ママ)言えない。

但し、主君の御事は申すに及ばず、両親に對しても、目の前に於いての慮外・緩怠とある様な状態では、武士道を立てるなんて事はとてもではないが出来る事ではない。

主・親の目通りを離れ、陰うしろに於いても、聊かの疎略もする事無く、陰日向の無いのを以って、武士の忠孝と言えるのである。

例えば何処に泊まって寝ようとも、主君の御座に方へは間違っても足を向けず、鎗・長刀を懸け置くのにも、切っ先を差し向けぬ様に注意し、其の他主君の御噂等を耳にするか、又は自分の口より言葉にする時は、寝転んでいても起き上がり、平座で居ても居直る様な行儀作法をこそ武士の本意とすべきところを、主君の御座の方と知りながらも脛を差し向け、寝っ転がりながら主君の御噂をしたり、或いは、親からの自筆の手紙などを受取っても、是を一度頭上に戴いてから拝見・・・等いう事も無く、胡座を組んでいながらも寝っ転がり(?なんじゃそりゃ!「大ひざを組て居ながらもふせり」)披見を遂げて傍らへ投げ抛り、其の手紙で行燈の掃除を(家隷に)申し付ける様な事は、是皆うしろぐらい所存であって、武士の忠孝の本心ではない。

そういう心だての者は義理を知らず、親疎の弁えがないからそうなるのだ。
他所他門の者に出会えば、己が主人の家の良くない点を数え上げて演説し、或いは全くの他人であっても、自分に媚び、諂って来る者さえあれば是を悦び、親兄弟の悪い噂でさえつつまず漏らさず語り出して嘲り、誹謗するのである。

そんな風であるから、其の裡に主・親の罰を蒙り、何か大きな災いに出合い、武士の冥利に盡きた(武士として羞ずかしいという意味にとるべきか)死に方をするか、譬え生き延びても、生き甲斐が無い様な風情になるか・・。
いかさま平穏な生涯を送れる等という事は、決して無い道理である。

是に関して、慶長の頃、福島左衛門大夫政則(ママ)の家来に可兒才蔵という武勇の侍あり。
足輕大将であったので、藝州廣島の城内、「黒金門」を預っていた。
一日中缶詰状態の番所を勤めるのに、その身は極めて老躰であったので、休息の爲に寝転んで居るところへ、政則の側近く仕えている小坊主が鷹の鶉を持参してきて、
「是は殿様の御こぶしの鳥にて候間被遣候との御意」
の旨、申し述べた。
才蔵は是を承ると、其の儘起き上がり、傍らに脱ぎ置いてあった袴を着し、本丸の方へ向かって是を戴き、
「御禮の義は只今罷上りて可申上也扨おのれめはいかに倅なればとて大なるうつけ奴かな殿の御意ならば御意とは不申して身共に寝ながら殿の御意をばよくも聞せたりおのれ倅にてなくば仕形もあれ共小僧の義なれば其段はゆるすぞ」
と大いに叱れば、小僧肝をつぶして急ぎ立ち帰り、兒小姓連中にこの事を語ったので、政則これを聞いて件の小僧を召し出してこの一件を改めて尋ねると、小僧は才蔵の申し分を残らず語ったので、
「それは己が不調法なれば才蔵が立腹尤も也藝備兩國の侍共を残らず才蔵が心の如く致してほしき物かなそれにては何事もなるに」
と、政則は申されたという。
初心の武士の心付けの爲、仍って件の如し。

 
主君を持ち、奉公する武士は、諸傍輩の身の上に悪事を見聞しても、陰噂をすまいという嗜みは肝要である。

何故ならば、自分だって聖人君子ではないのだから、長年の内には何かにつけて失敗や心得違いだってするに違いないという遠慮の慎みからである。

就中、其の家中の家老・年寄りなどと言われる、諸侍の座上をも仕る武士であるなら職・禄共に重いのだから、其の人柄・知恵・才覚なども職禄相応にあってこそ然るべきなのに、全然そんな事ないじゃん。等という批判は、理屈の様に聞こえても、畢竟屁理屈である。
(注・原文は「不理屈」。未だ「屁理屈」という表現がなかったのか?)

理由を言えば、既に天下を知ろし(注・平定?)召される公方将軍家等の御旗本に於いて、加判(公文書に判を押す様な職分)の老中などというのは、其の時代時代で数多居る郡主・城主の中に於いて、専ら其の人柄を御選びになっての事であるのだから、現職で加判の列に至っている程の人の中に、さのみ不器量な人は居らぬ筈である。

國・郡を領地している大名方の家々に於いては、家老・年寄りを勤める程の(家柄の良い)侍は、禄に付き、筋目に付き、家中数多居る侍の中にも、(そんなに恵まれた人間は)数多く居ないものである。

であるから、人選をするといっても、そんなに選択肢は無い訳で、まあ大体人並みに生まれついたのを幸に、筋目と禄との二つが揃っていれば、先ず家老・年寄りの列にも加えられるだろうという状態であるから、段々仕事にも慣れ、功績も増えていって、後々は役に立つ程度には育つだろうという主君の思惑から、其の役職に就かせられるという様な事もなくてはならないのである。

そういう家老・年寄りだと、自分の役職に對して、能力的にちと役不足という事も起こらざるを得ない。
然るに、その役不足だと思われる点を観察し、聞きとがめて、何かと批判したり謗ったり嘲ったりするというのは不料簡の至りというべきである。

何故ならば、草木の類いでも良く花咲き、実のなる年もあり、花・実共に不出来な年もある様に、人間だって、利発な親の子とは思えぬ生まれ付きもあり、又は親を凌ぐ様な能力を持って生まれる事もあるというのは、古今の世に普通にある事である。

主君に人を見る目が無いという訳ではないけれども、其の者の先祖代々の忠功を思って取り立てているのであり、家柄を重視して重い役職の列に就かせるというのは御尤もの至りである。
家来の身としては、頼もしく、有り難いと思わなければならない。

然る上は、そういう家老・年寄りの口から、聞き苦しく、不条理な事を言われて、これは聞き捨てならぬ・・・と思う様な事もあるかもしれないが、こちらの言い分を差し控え、当り障りの無い様に返答しておくべきである。

何故なら、それが主君の言葉であったなら、どれ程無理難題を吹っ掛けられても口答えは一切出来無い訳である。
主君の言葉を伝える家老・年寄りであるから、主君の御意も同然である・・・とはいっても、飽く迄主君ではないのだから、自分の意見を残らず、但し慇懃に言葉を和らげて申し述べるというのは良い事だ。
如何に自分が正論だと思っても、家老・年寄りなどいう重職に對して、言葉にカドを立て、言いたい放題するというのは、主君に對し奉り、大きなる無礼であるという分別をするのが武士の正義だからである。

扨又、時の用人等という類いの役人の場合は、あながち筋目・家柄という選考基準も無く、家中の多くの侍の中から、専ら能力の優れた者を選んで仰せ付けられるので、どこかヌケているなんという者は居ない筈である。

然れども、長く時間をかけて使おうとの御主君の計画がある場合、年齢微弱の者にも御側向きの諸事の御用を仰せ付けられ差置く様な事も有り得る。
そうして登用された人物というのは、主君に認められているだけに、間々心得違いや、不念・不沙汰をする事もないではない。
それを見咎め、聞き咎めて、非難をし、謗り、嘲るというのも宜しくない。

どれ程利発な生まれ付きの者でも、仕事の仕様が悪いとか、人間出来てねぇなとか、自慢が多いなとか、目立ちたがるとか、自分は他人とは違う特別な人間なんだと謂わんばかりの言動・行動が多いとか、同性相手に喋ってる時は物静かなくせに、異性相手に喋る時はいきなりハイテンションになって、普段言わない様なギャグを言ってみたりして、それも言った後、周囲の反応を覗ったりする。ああ、畜生が抜け切れてねぇなとか・・・は、若いからだと了簡すれば済む話である。
(スイマセン。作りました。原文は、「何程其身利發なる生れ付にても事のたらはぬは若氣故の義也とさへ了簡仕れば申濟申義也」。←しかも、恐らく誤字であって、本来は「事濟申義也」であろう。)

惣じて家老・年寄り・用人等という類いの諸役人は、主君が御選びになって其の役職に就いているのであるから、その諸役人の事を悪く言う時は、主君を誹るも同然である。

其の上、何かの時にそうした人達に頼まなくては処理出来無い事等が出来した場合、機嫌をとって手を付いて、膝を屈めて、「偏に頼入存る」等と言わねばならなくなる事も無いとは言えない。

今の今迄、陰で謗り・嘲っていた口をすぼめて、如何に用があるからといっても、(コロコロ態度を変えておべっかを使ったりするのは)武士たる者の口にすべき言葉ではないとの遠慮がなくてはならない。
初心の武士心得の爲、件の如し。

 
大身小身共に、武士の役儀というのは、陣と普請の兩役である。

天下戦国の時は、明けても暮れても爰の陣、あそこの軍という事で、一日たりとも武士としては身を安く置く事は出来無い。

陣とくれば普請は付き物で、爰の要害、かしこの掘り切り、扨は「取手陣城付城」等といって、昼夜を限らぬ急ぎの普請に、上下の骨折り辛労というのは浅からぬものがある。

治世に於いては、陣というものが無いので、当然普請もなくなる。
去るに依って、武将の下の大小の侍に、番役・供役・使役等、其の他様々な役を定めてあって、諸人、唯居るだけの勤めをさせ差置かれているのを、「これが武士の役儀だ」と心得、そもそも肝要であった、陣・普請の兩役の事を明け方の夢にも思い出さず、たまさかに公儀御普請の御手伝い等を主君へ仰せ付けられた時など、藩の出費が嵩むので、家中大小の侍にも出費の総額を割り振られて、微々たるものであるが出費をしなきゃならない様な事になると、何でしなくとも良い出費をしなきゃならないのか・・・なんて事を悔やみ呟き申すなんてのは、畢竟、武士の役儀に於いて最も肝要であるのは陣・普請にあるという事を弁えていない不心懸けから起こるのである。

扨、平時の番役・供役・使役であっても、自分の果たすべき作業を勤める事さえ大変な難儀だと思わせる病気・・・なのか何なのか知らないが、欠勤届けなどを出して、同役相番の者に自分の抜けた穴のヘルプを頼んで、人に苦労をかけている事を何とも思わないのが居る。

或いは、遠方への出張などの場合、出張中にかかる費用や出張中の疲労などを嫌って仮病を起こし、その出費・疲労を人に押し付けて其の場凌ぎにトンズラを決めておいて、暫くして、すっとぼけて出勤し、諸傍輩の顰蹙をも憚る事が無いとか。

他にも、ちょっとそこ迄の供使いに行くのにも、日に二度出るかどうか。
又は風雨などが激しい時など、友傍輩が聴いているのに臆面も無く、恨み言をブーブー言いながら、辛そうに意地むさい働き方をするなんていうのは、悉皆武士の皮をかぶった小者・中間となんら変わらない。

譬えどんなに大変な勤めだといっても、畳の上の勤番。
近場への供出に走りまわる程度の事は、何でもない筈である。

理由を言うと、戦国に生まれた武士は、毎度軍に罷り立って、夏の炎天下にも具足の上から焼き付けられ、冬の寒風は具足の隙間から吹き込んできてどうしょもない・・・といっても、その暑さ寒さを遁れ凌ぐすべもなし。
雨に打たれ雪をかぶって、山にも道にも鎧の袖を枕にして寝るし、剰え食料といっても、黒米・鹽汁以外に支給されるものも無い状態で、或いは対陣・城攻め、或いは駕籠城等の辛苦をしているというのは、難儀というか苦労というか、只もう尋常の事ではないだろう。

これを踏まえてさえいれば、治世の番役・供役・使役なんてのは、言ってみても楽な仕事である。
然るにその楽な仕事をさえ勤め兼ねる様な弱い心では、軍旅の苦しみを耐え忍ぶ事なんて出来るのか?と心有る武士に言われるのを羞ずかしいとは思わないのか。

武門に生を受けたからには、昼夜甲冑を放さず、山野海岸を棲み家とでもするくらいの根性がなくてはダメなのに、天下静謐の時代に生まれたがゆえに、身分の高いのも卑しいのも、夏は蚊帳を垂れて冬は夜着蒲団に巻かれて、朝夕、「ばっか食い」をして安楽に渡世しようなどというのは、とんでもない事だ。
これを覚悟してさえいれば、座敷の内の番役、近所の供役使役程度の苦労を大儀に思える道理は無いのである。

これについて、甲州武田信玄の家中に弓矢巧者の誉れ高い、馬場美濃という侍は、「戦場常在」という四文字を書いて、壁に懸け置き、平生の受用としたと言い伝えられている事を付記する。
初心の武士心得の爲、仍って件の如し。


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