宗教その他の疑問

般若心経 

前世占い

神道と塩

「ありがとう」の物質化 

弥勒菩薩降臨 

悪魔の攻撃

将門の祟り 

極楽 




般若心経

般若心経というものがある。
とり憑かれた人間に対して坊さんやら霊能者やらがこの文句を唱えると、除霊にかなりな効果が期待出来るとかいう。

西洋人の霊能者にこの般若心経をローマ字にして渡した処、ローマ字を読んだだけで除霊に効果が有ったとして、件の西洋人霊能者に喜ばれたという話もある。

私はあんまり能く知らないのだが(知らないで書くな)、この般若心経というやつ。インドから渡って来たものを、クマラジュウ(漢字失念。従って本来の中国語読みも不明)という人が玄奘三蔵に伝えたものだという。

そもそも古代インド語(梵語)である此の御経を中国語に訳す・・・というと、例えば「アイ・ラヴ・ユー」を「ウォー・アイ・ニー」に訳す様なものと思い勝ちであるが、左に非ずで、例えばこうだ。
原語の「ガーテイ、ガーテイ、パーラガテイ、パーラサンガテイ、ボージー、スーヴァーハー」を音訳し、そいつを漢字に当て嵌めただけであって、結果こうなる。
「羯諦 羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶」

漢字は表意文字であるが、中国には表音文字が無いので、音を表すにも漢字を用いなくてはならない。だから中国人が外国語の音を文字にする時、漢字で表記するしか表現の仕様が無い為に、この様な漢字の羅列が現れるのは蓋し当然である。仕方が無い。
「I Love You」を「アイラヴユー」と表記しても、日本人が其の本来の意味を解し得る事から見ても、此の漢字の配列で、中国人が梵語本来の意味を、或いは尠くとも音を解するに充分であろう事は理解出来る。
問題なのは、此の漢字を其の儘日本に持って来たワケだが、では日本人にとって此の漢字は意味を成すのだろうか?という事だ。

日本語での読みは「ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじー、そーわーかー」であり、ほぼ原語と同じであって、音読するだけなら、それこそ日本人が発音しようがアメリカ人が発音しようが、「悪魔祓い」の効果が有るというのなら、効果も発揮しよう。
ところがコレに、仏教の本来の目的である「仏に成る方法」の教科書的使用法を求めるとなると、話が違って来るんではないだろうか?

日本語や中国語というのは、漢字そのものに意味が有る。例えば、「被立退候」とあれば、漢字の順番が必ずしも口語と一致せずとも「たちのかれたんだな」と解る。漢字自体に意味が有るからである。
然るに上の般若心経は音訳でしかないワケであるから、漢字を無理矢理当て填めた処で、原語の意義が通ずる筈とて無いワケである。

ところが、例えば般若心経の一節である、「能除一切苦、真実不虚」という部分。此の箇所にはこんな意味が有ると、日本の般若心経解説書に謂う。仍ち、

「これこそが、あらゆる苦しみを除き、真実そのものであって虚妄ではないのである。」

恐らく「能く一切の苦を除き、真実にして虚にあらず」かなんかになるんだろう。
併し俟て、爰に用いた漢字というのは、そもそも単なる音訳ではなかったのか?
偶々当て嵌めた漢字に、原語と同様の意味が有ったというのか。

元より、原語の該当部分が、本来如何様の意味を成すのか、私は知らない。
が、元々の意味と、漢字に音訳した後の意味とが合致していたというのも、どうも恠しい気がしないでもないのは私だけだろうか。

原語である梵語の翻訳を能々聞いてみたら、日本語ヴァージョンと全く違う内容だったりしないのだろうか?

(追記)
ちょいっと調べたら、どうやら般若心経というのは音訳のみの部分と意訳の部分が有る様だ。
音訳の部分は上にも挙げた「ぎゃーていぎゃーてい・・・」の部分なのだが、意訳の部分、例えば上に挙げた「能除一切苦、真実不虚」を例に採って原音を表記すると、
「サラバ ドッキャ ハラシャ マナウ サチヤ マミ チャタバート」
となるのだが、この言葉を漢字に当て填めると、
「一切 苦 能除 真実 不虚」
の順になるらしく、読みも全然音が違う。
「のうじょいっさいく、しんじつふこ」
ではないのだ。  




前世占い

これはドキュメンタリー漫画に載っていた咄だと思われるが、前世を見てくれるというので有名な霊能者の許へ、或る方が見て貰いに行ったら、
「貴方の前世はソロバンの玉です。それも下の方の。」
と言われたという事が有ったんだそうな。
他にも、
「包丁の柄です。」
と言われた人もあるとか。

この霊能者の主張が嘘だとしたら、多分、
「前世は生物であるとは限らない。無生物であっても可笑しくないのだ。」
との考え方に基づいて創作されたものではないかと思う。
何しろこうした現象の「原理」というものは、想像力次第で幾らでも拡張することが可能であるから、
「前世が無生物でも可笑しくない理由」
は、幾らでも創作可能なんだろう。それを論理的に「有り得ない」と証明しない限り、疑いを持つ事を知らない素直な人間は、霊能者の提唱する「原理」を根拠に信じ続けさせられてしまうのだ。

「無生物が意識を持つ」という考え方を否定しないケースには、何度か御目に懸かった。
「水晶に意識が有る」とか「石に意識が有る」とかいうやつである。
であるから、こうした考え方は決して目新しいものではなく、それだけに
(何処かで聴いた事が有るだけに)、霊能者から「ソロバンの玉に生命が宿る」と聴かされれば、何と無く信じてしまうのだろう。
(因みに「パワー・ストーン」なるものが有る。これは或る特定の種類の石を持つと、健康になるとか金運が上がるとか交尾相手が見付かるとかいった効能が有るという信仰から生れた文化だろう。
では、その石を産出する地域の人間は、全て健康であったり、必ず伴侶が居たり、金持ちだったりするのだろうか?
それを掘り出した人夫は、しょっちゅう其の石に触れているが、矢張り金持ちなのか?
同じ事は、其の石を運搬する乗り物に乗って運転する人間や、石を仕入れて店に置いている会社の連中などにも言える。
彼等が、完全無欠の健康体であったり、突然金運に恵まれたりする確率は、抛っておいた場合と較べて、どの程度の開きがあるんだろうか?
同様にラッキー・アイテムと呼ばれる物にも同じ様な疑問が生じる。
例えば現在、「ドリーム・キャッチャー」なるアメリカ先住民のまじないアイテムを車内に吊り下げる事がよく行われる。
吊り下げている当人達が一体どういったつもりで吊り下げているのかは知らんが、そんなラッキー・アイテムを使っていた当のアメリカ先住民達は、白人に土地を侵略され、あのザマである。
風水も流行っているが、風水発祥の地の中国では、国民は共産党独裁の許で不自由な生活を強いられ、貧富の差は修正不可能。ちょっとでも逆らえば公開銃殺刑。農民レヴェルでは「vs他村」乃至は「vs国」の武装蜂起が年間に数百回発生。当の中国政府も様々な要因で崩壊寸前である。)

こう言うと、霊能者側としては、
「私は何も、初めから「無生物にも意識が有っておかしくないから」との根拠で「ソロバンの玉前世説」を言い出したワケじゃありません。勝手な前提を作っておいて、それに突っ込みを加えても意味の有る論証とは成り得ません。」
と来るかも知れない。
確かに霊能者がそんな事を言ったワケではないし、一般的に見ても「前世占い」と「無生物云々」を関連付けて考える私の考え方の方が「飛躍し過ぎ」に見えるだろう。併し、「ソロバンの玉です」という主張が出た根拠が、私には、どうしても「無生物でも何でもかんでもアリにしてしまおう」という安易な発想から出たものに思われてならず、其処に「一本の木の中の、或る特定部分だけを指して『前世だ』と主張する論理の欠陥の原因」が見出せる様に思うのである。

ま、いいや。では霊能者の主張が、「だってそうなんだからしょうがないでしょ」だとすると、それでもおかしい。
「前世は何処其処に立つ一本の木です」
というのであれば解るが、其の木を伐って細かく分別し、例えば
(例えばだから本当はそんなに様々な用途に一本の木を用いないだろうが)、或る部分は家具屋で椅子やタンスにされ、或る部分は紙になり・・・と様々な方面へ分けられていった中の、たった二センチ角にも満たないカケラ(ソロバンの玉)だけを指し、「貴方の前世は此の部分です」というのも極めて妙な話である。
木というのは、根っこから葉っぱの先端迄の全てを言うんではないのか。
他の部分は「貴方」じゃないのか?

木をまるまる一本使って、それが全てソロバンになったとすると、同じソロバンの中には同じ木から出来た「玉」が複数入っている可能性は高いだろう。なのに、「下の方の玉」だけが「貴方」なのは何故だろう?

一本の木が複数のソロバンになったとしたら、何故其の中の一個のソロバンの、それも「下の方の玉」だけが「貴方」なのか。

ソロバンの玉の材質が象牙であっても同じ事だ。
「象牙が前世」なんじゃなくて、「象が前世」というべきではないのか。
材質がプラスティックなら、原料の原油の元になった生物が前世だろう。尤も原油の状態では、複数の個体がどろどろに混ざり合ったものになっているだろうが。

若し件の霊能者がこれを見たら、
「そうだ、じゃあ、そう突っ込まれたら、『ソロバンの玉という一個の物に加工された時点で、新たに生命が宿るのよ。』とか言おうかしら。」
等と分別して、更に一般市民を惑わすかも知れない。
この世界の「自然の法則」は創り放題だ。




神道と塩

神道というのは、慥か其の謂われと云うか出自と云うかがはっきりする、つまり、どんな経緯で出来上がったかが或る程度判明している宗教なんではなかったっけ?
要は天皇の先祖を神に仕立て上げ、其処に道教の教義やら呪術的要素やらを取り入れた宗教なんじゃないかと思うが、とすれば神道で云う「神」とは即ち「天皇の御先祖様」であって、神社とはその「御先祖様」を祀った所だ。
併し霊能者はよく、「神社に行って何々をしなさい」だとか「あすこの神社は清浄なパワーが漲っている」とか「何々神社の神の力に御縋りしなさい」とか言う。
何故だろう。只の御先祖様だったものが、本当に神になってしまったものだろうか。

ま、いいや。処で神道と云えば「塩に由るお清め」という事が有る。
以下塩の情報。

イオン反応式 Na+ +  Cl- → NaCl
化学反応式 2Na +  Cl2 → 2NaCl
組成式 NaCl(分子ではないので分子式は無い)
構造式 Na−Cl
式量 58.4 amu
融点 1074 K (801 °C)
沸点 1738 K (1465 °C)
密度 2.2 ×103 kg/m3
結晶構造 面心立方格子構造
溶解度 35.9 g in 100g water

電子式

模型

扨、これ等の情報の何処に清めの効果の秘密が隠されているでしょうか。

或る神道系の本を手に取ってパラパラと捲って居たら、塩に関する記述が出て来た。
其の本は某有名神社の宮司さんが書かれた本である。謂わば神道教義に精通する第一人者とも言える方が、神道に於ける塩の位置づけをどう捉えて居られるかという点に興味を惹かれた私は、ちょっと立ち読みしてみた。文章丸々覚えていないので、概略だが以下の様な内容である。

「塩というのは地球創成期にマグマから海に溶け出したと言われています。ですから塩はマグマ(地球)のエネルギーなのです」

私は海の形成過程で塩がどの様に海水に含まれていったかはよく知らない。
酸性だった海が岩石を溶かして様々なイオンが海に溶け出した結果、今の様な塩辛い海になったとも言うが、だとしたらマグマから溶け出したといっても大筋で大差あるまい。
併し、マグマに含まれていた成分が「マグマのエネルギー」とはどういう事か。
「○○だから△△です」と言われると、うかと信じてしまいそうになるが、よおく文章を読み直してみよう。
(似た事例に、某格闘家の
「『E=MC2』。即ち物質とエネルギーは等価であり、エネルギーの波長が小さくなると物質化するのです。ですから、「有難う有難う」とか、「私は強い私は強い」と毎日言う事に因って、有難いと思う事柄が生じたり、自分が強くなったりと、物質化が起こるのです(それを物質化と云うのか?)
という認知症を患ったかの様な自説が有る。この様に、話の前半と後半が「〜ですから〜」の様な接続詞で繋がっている様に装っていても、主語と述語の両者に必ずしも因果関係が有る訳ではないと云う事である。)

まあ良い。
マグマの成分=地球のエネルギー=魔除け効果アリ
すると他のイオンもそうだが、マグマに含まれる硫黄やら金属元素やらも地球のエネルギーという事になり、魔除け効果が期待出来るのだろうか。

更に、概略以下の様な事も仰って居られる。
「食物を塩漬けにすると細菌の繁殖を抑えて食物が長持ちすると言われていますが、私は塩の持つ清めのエネルギーが働いているからだとも思うのです」

そんな「言われてるが信じません」みたいな・・・。
然も調べた風ではなく、「思うのです」って・・・。
「清め効果で腐らない」というのはどうも「腐敗させる細菌は不浄なもの」と謂わんばかりであるが、腐敗といっても細菌はただ食って分解してるだけである。人間だって他の生物の体を食って分解するではないか。大なり小なりほぼ同じ様な事をしているに過ぎない。
腐敗菌は、生きていて抵抗力のある生物は分解出来ない。塩漬けにされる様な死んだ生物を食って分解しようとしてるだけだ。
火葬の風習が広まったのは近世に入ってからだろうが、それ以前、土葬が主流だった頃、彼ら腐敗菌が働いてくれなければ、世の中は死体だらけになって、地球上の栄養素の循環もなくなってしまう。彼らも立派に食物連鎖に貢献しているのだ。
それを「清め効果で腐らせない」等とは・・・。

(参考)
塩の濃度が高い所に細菌等が近付くと、浸透圧で細菌の内部の水分が奪われてしまって細菌が繁殖し難い。




「ありがとう」の物質化

上で書いた、
「E=MC²だから、『ありがとう」と口に出せば、そのエネルギーが物質化して、感謝する様な事が起こり、『私は強い』と口に出せば、自分が強くなる」
に就いて、ちょっと考えよう。
某格闘家の主張は、
「物質とエネルギーは等価である。エネルギーの振動数が下がっていくと物質と成る」
である。

茲で問題は、
、「ありがとう」「私は強い」という言葉のエネルギーは、Jでもcalでも単位は何でもいいが、数値化すると、どの程度のエネルギーなのか。どんな種類のエネルギーなのか。

、「有難いと思う様な出来事が起こる」「自分が強くなる」のを、果たして「物質化」と云うのか。

、「ありがとう」という言葉のエネルギーと、物質化した「有難いと思う様な出来事」の質量(?)、又、「私は強い」という言葉のエネルギーと、物質化した「自分が強くなる」の質量(?)は、本当に等価なのか。

、エネルギーを一定の条件下に置くと、エネルギーは変換する。
例えば、運動エネルギーを持った物体に摩擦を加えて減速させると、運動エネルギーは熱エネルギーに変わる。
電気エネルギーの行き先にモーターを置けば、運動エネルギーに変わる。
太陽電池は太陽の光のエネルギーを、電気エネルギーに変える。
そういう変換をする様に人間が仕向けるか、周辺の状況が変わるからである。

では何故「ありがとう」「私は強い」という言葉のエネルギーが、選択的にそれぞれ別の特定の出来事に変換されなければならないのか。
物質化と云うなら、何か別の形で、例えば
「水素原子が二つ出来ました」
とか、
「陽子と中性子が一個ずつ出来ました」
と云った形でもいい筈なのに。

然も、これらは言う内容こそ違え、いずれも「口から発した言葉」という種類のエネルギーという点ではどちらも同じタイプのエネルギーにしか思えないのだが。
二つの言葉は言い方を変えただけ。両方共「音のエネルギー(?)」。
同じタイプのエネルギーが、違った形に「物質化」する要因とは何だろうか。
そもそも何故わざわざ物質化するのか。

、全てのエネルギーがそう簡単に物質化するなら、世の中どうなってしまうのか。

、「私はデビルマンになる」「私は神になる」と、ずっと言い続けたら、そうなってしまうのか。

「3」に関して、具体的に「有難いと思える出来事」を起こす場合を考えると、一つの物事が起こる時には、夫れ迄に様々な動きが生じるものだが、
「希望していた仕事にありつけた」
という出来事を仮定してみても、其処に至る迄には様々な人の動きがあってカロリーを消費する。其の人達が打ち合わせの為に電気機器を使えば電気エネルギーを必要とする。
一体その出来事の中の何処で、物質化した「ありがとうのエネルギー」は消費されたのだろうか。

こちらの口から出た「ありがとうのエネルギー」は、口を中心として約200度の角度内の空気を振動させ乍ら、凡そ秒速300メートル程度の速度で相手の耳に達し、相手の鼓膜を振動させる。有効距離は半径3メートル程としよう。その程度のエネルギーが物質化したら、一体どれほどの事が起こせるのだろうか。

上で触れた様に、1gの物質をエネルギーに換算すると21510000000kcalになる。
逆に言えば、21510000000kcalのエネルギーが無いと、1gの物質すら造れないのだが、「ありがとう」という音の持つエネルギーには、とてもの事にその様なエネルギーが詰まっているとは思えない。
(音のエネルギーだとすればである。通常の会話で話す音量は50mW程度であるという。四苦八苦して計算してみると、一秒間「ありがとう」と言った時には1calの1%程度しか発生しない。「ありがとう」とささやく程度ならもっと低い数値に成ろう。計算が合ってればだが。)

電子の質量は9.110 x 10-31 kgだというが、電子なら「ありがとう」のエネルギーで何個作れるだろう? (私は計算出来んが)
「おばちゃんに親切にされた」という出来事が起こったとしたら、おばちゃんの脳神経に電子を物質化させ、それを自分に対して親切心を起こさせる様に動かしたとも考えられるが、自分の意思でなくして、どうやって電子にそんな動きを選択的にさせる事が出来るのかという疑問が残る。

「自分が強くなる」には、単純に考えて、特定部位の筋肉の発達。脳からその筋肉迄の神経伝達経路の充実。その周囲の毛細管を含めた血管の充実。心肺能力の向上。筋肉を効果的に動かす化学的エネルギー獲得機構の発達、脳内の判断力(ひいては経験値)の向上などが考えられるが、殆ど独り言の様にボソッとつぶやかれる「私は強い」という言葉のエネルギーに、とてもでは無いがそんなに多くの物質を造り出す事は不可能に思われる。

これらの事が、「言霊」という言葉で表現されるならば話は別で、文句をつけるべき話ではなくなる。
そもそも「言霊」自体が証明の仕様の無い代物だからである。
それに実際に「言霊」があったとしたら、
「恐らく言霊によって、何か別の力が働いているんだろう」
とか何とか思うんではなかろうか。
「別の何かの力」、つまり、「外部から別のエネルギーが加わっている」というのであれば、問題は無かろう。
亦は何かの信心から、象徴的な意味合いで「有難うのエネルギー」と言うのなら解るが、其処に「エネルギーと物質は等価だ」等と言い出すから可笑しな事になる。

常に「有難い」と思う気持ちは大切である。
家族と過ごす時間が、仕事が上手くいっている状況が、人に認められている期間が、五体満足で居られるあいだが、当たり前だと思ってはならない。
家族を失って、家族と冗談さえ言い合えない人が居る。
仕事がどうしても上手くゆかず、何をやっても悪い方向へ傾き、遂には自殺する人がある。
人は他人のアラを探すものである。アラ探しをされ、それを誇大に吹聴され、見下げ果てられて、居所を失う人が居る。
怪我や病気で、自分の足で何処にも行けなくなってしまう人が居る。
今の状況が「当たり前」ではなく、「有難い」と常に思っていれば、家族や人に誠意を以て接する事が出来、諍いを避けられる。無謀運転を避けたり、摂生に務める事に依って体を壊す可能性が減じる。(「あわや」と云う体験をせねば感覚的に理解出来んだろうが)
そういう意味では「ありがとう」を常に念じるのは大いに推奨出来る。
だが、それをいい加減且つ無理矢理に、全く無関係な学問の法則に当て嵌めようとする姿勢は、無責任も甚だしいと言わざるを得ない。



弥勒菩薩降臨

仏教では弥勒菩薩という存在がある。
菩薩という位は、釈迦如来、薬師如来等の「如来」に次ぐ位である。
この弥勒が、次の如来となって、キリストの再臨よろしく56億7000万年後に地上に現われるという。

此の説は別に其の辺の作家が考え出した突拍子も無い妄想ではなく、元々仏教で言われていた事だと思う。(それを言い出した人が問題児だったのかも知れないが)

ところで我々の太陽の寿命は、凡そ100億年といわれる。
現時点での太陽の年齢は、凡そ46億年である。
今から56億7000万年後だと、太陽の推定寿命より2〜3億年超過である。

我々の太陽程度の質量を持った星が、寿命近くなるとどう云う事が起こるか。
太陽内部では核反応に因り、1500万度もの高温を発している。この温度の圧力が太陽の構成物質を外側に向かわせ、太陽の巨大な重力で中心方向に縮んでしまうのを防いでいる。
寿命が近くなるという事は、太陽が燃料である水素を使い果たし、核融合反応が止まってしまう事を意味する。
核融合反応が弱まると温度が下がり、今度は自身の重力に逆らえなくなって縮み始める。
縮むと内部の温度なり圧力なりが再度上昇して、太陽表面は一時的に外側に膨らみ始め(此の辺りは未だ能く解っていないらしい)、赤色巨星となって火星の軌道辺り迄膨張する。
この時、火星より内側の軌道にある惑星は蒸発してしまうだろう。
其の後太陽は再び縮み始め、最終的に太陽系は、中心部に巨大な原子の様な白色矮星が余熱でぼんやり光を放っているだけの寒々しい光景となるだろう。

其の後、2〜3億年も経ってから意気揚々と「救世主推参」とばかりに降臨した処で、弥勒菩薩は一体何をするというのだろうか。

尤も、太陽の寿命等は質量から推測した凡そのものであろうから、或いは太陽が膨張して地球上の生命体が死滅する寸前が56億7000万年後であって、弥勒は其の時を狙って出現するのかも知れないが。

大体其の前に、114万年後、小惑星エロスというのが地球に衝突する可能性が有ると云う。
6500万年前、恐竜を滅ぼした原因になったという説(最近立証されたとか)もある小惑星の衝突があったが、其の時衝突した小惑星のサイズは直径10km。これはTNT爆薬にして凡そ6000万メガトンの破壊力を持ち、生物種の60%、海洋生物の75%が絶滅したという。
併し小惑星エロスの直径は何と22km。エネルギーでは6500万年前の物の10倍である。
こんなものが衝突した日には、若しかしたら太陽の赤色巨星化を俟つ前に、地球生物は絶滅してしまうかも知れないが、其の辺りを弥勒菩薩はどう御考えだろうか。

補足
最新の研究結果(?)では、太陽中心部の水素が燃え尽きるのが64億年後。弥勒菩薩が現われるのが56億7000万年後なら間に合う。
因みに、太陽は其の後13億年程かけて現在の地球軌道付近迄膨張。其の時点で現在から77億年である。
太陽表層付近は重力が弱いので、表層付近にあるガスが宇宙空間に放出され、太陽自体の質量が減少。夫れに伴って太陽の重力は弱まり、地球は却って太陽から遠ざかり、太陽に飲み込まれはしないだろうという。
とは云え、太陽が赤色巨星になると土星・木星の輪は蒸発し、土星・木星自体の表面ガスも吹き飛ばされる程の影響力が有るというから、地球大気も吹き飛ばされ、恐らく超高温となるであろう地球上に生物が棲息し続けられようとは思えないが。
挙句に78億年後には、太陽は白色矮星となって太陽系は凍てついてしまうから、これは弥勒菩薩に56億7000万年後に必ず現われて貰わないとかなりヤバイ事になる




悪魔の攻撃

これは其の道では有名な話なんだと思うが、シスター何だかとかマザー何だかという、日本人の修道女(?)のおばちゃんの話が有る。

私がこのエピソードを読んだ本は、キリスト教・・・といっても「悪魔祓い」に関する、言ってみれば奇跡だとかマリア出現だとかを報ずるニュースに乗っかって野次馬的に出版される類いの本である。
主旨としては「悪魔に支配されない様にするには神を信じなさい」といった処だろうと思うが、それだけに、件のおばちゃんの話が紹介される迄に、さんざっぱら悪魔の怖さとキリスト教に由る救いのエピソードが紹介される。

世に「聖人」と言われる人物があるが、これは生前聖職者の身にあって、信心頗る篤く、死後其の関係遺物から奇跡が起こった場合なんぞに贈られる称号である。
同書に拠れば、そうした信心深い人の所には、信仰をやめさせようと悪魔が攻撃を仕掛けて来るのだそうだ。
いや、是自体は別に同書の著者が考え出した設定ではないだろう。
事実、その例としてピオ神父やヴィアンネー司祭の体験談が紹介されるから、事の真偽は別としても、尠くともカトリック信者一般の認識といってもいいのかも知れない。

問題は件のおばちゃんの話だ。
予め言っておくと、キリスト教というのは一神教。つまり「神は一人だ」と主張する宗教である。
イエスというのが居るが、これは神ではないのか?神が居て、その下にイエスが居るんだから、イエスは神の子であって神ではないのだ。
だから、ギリシアの神々とかヒンドゥー教の神々を崇拝するのは偶像崇拝であって、邪教である。
当然日本神道も多神教である以上は邪教と云う事になろう。
一神教であるキリスト教の神以外に「神」は存在しない筈なのだから。

子羊の様に弱々しく、敬虔な信者と云った態で登場したおばちゃん修道女は言う。
「夢で八百万(やおよろず)の神々
(神道の神々)が出て来て、『我々を信じると言え!』と迫って来たんです。私は怖くて唯一心に神に救いを求めていました」
是に就いて同書は、恰も「ほうれ見ろ。信心深いとこういう様に邪教神(悪魔)の攻撃を受けるだろ」と謂わんばかりである。

併し俟て。おばちゃんは「夢だ」と言っとるだろうが。
普段考えている事、恐れている事が夢には出て来るものだ。
読んでるコッチも「夢」を何か意味の有る事の様に錯覚させてしまう様に、事前に悪魔の攻撃の話をさんざ聞かせておいてからの此の話であるから、無垢な中学生等は変な風に捉えてしまうだろうが。

おばちゃんの夢の話を、さも重大事の如くページを割いて紹介した此の本は、ネットの情報に拠ると、後年全くのホラ話集だとして糾弾された様だ。

(私は少女マンガを「読み難い」と思って読まないが、かみさんが読んでいたのを何気無く読んだら、意外と読めるので結構はまった。
その漫画はドキュメンタリーで、実在の霊能者の活躍を描いた物だ。
この霊能者のニュアンスによれば、神社の神は高徳なエネルギー体《どんなエネルギーだろう?》の様なものであって、能く解らない・・・みたいな感じだった。
また他の霊能者の誰だかは、「神社の神は、其の地の自然霊」みたいな事を言っていた様な気がする。
二人共同じ事を異口同音に言っていただけだとしよう。ここで心霊云々を肯定する立場をとって考えてみると、神社の神とは、「其の地に留まる高尚な自然霊」だとも考えられる。
一方で、キリスト教のキリスト「イエス」の認識する「神」とは、旧約聖書の神であろう。
旧約聖書には、預言者《何かを言い当てる「予言」ではなく、誰かから言葉を託される「預言」》みたいな人達《謂わば現在で言う所の「霊能者」みたいな人達とも言えようか》が、「神がこう言った」といった事を書き連ねてある。
茲で彼等旧約聖書の預言者が認識する神とは、天地創造の神である。
天地創造の神は一人。故にそれ以外の「神」を奉ずる宗教は邪教である。というのが彼等の言い分であろう。
併し、彼等が言葉を賜わった神が「天地創造の神」である確証は何処にあるのか。
譬え其の「神」が、「自分は天地創造の神である」と言ったとしても、本当かどうかは判らない。実はイスラエルだかどっかの、一地方に留まる、コッチで言う「神社の神」みたいな存在だったかも知れないじゃないか。)




将門の祟り

以前よそ様の掲示板に書いた話をもう一度。

或る日突然、世界各国の主要都市の上空に、同時多発的に異星のものと思われる未確認飛行物体の大編隊が出現。
次々に市街地を空爆し始めた。

東京上空にも現れた異星の攻撃機は、散開して各個に爆撃を開始。
其の裡の一機の照準に、「将門の首塚」がロック・オンされた。
さあ、この機のパイロットたるエイリアンは、果たしてミサイルの発射ボタンを、無事押す事が出来るだろうか。

「将門の首塚」を撤去しようとした時、工事関係者に怪我人・病人・死人が出た話は有名である。
果てはブルドーザーがひっくり返ったりしたらしい。

将門の呪いは、異星のテクノロジーで造られた戦闘機に故障を生じせしめるか、異星人の未知の生理に悪影響を及ぼす事は可能だろうか。(異星のテクノロジーや異星人の生理が判らなければ、無意味な問いであるが。)

亦逆に、異星人のテクノロジーが、完全に霊現象を解明していたら、将門の呪いに対抗出来るかどうかを考えてみるのも面白い。

おばけを、個性を持った生命体として認識し、意思の疎通を試みるなどの手段を講じるだろうか。
それとも全くの自然現象として認識し、それを抑えこむだけの機械的なテクノロジーを有しているだろうか。
(どういうテクノロジーの進歩の仕方をするかは、各星の各々の科学者の考え方に依るだろうけど。)





極楽

極楽に行ったらどうなるか。

落語などの所謂「郭噺」に出て来るのに、心中しようという女郎と客が、「蓮の葉の上で所帯を持とう」等と云い交わすシーンがある。これはどういう事かと云うと、私はよく知らないが(知らんで書くな)、どうも日本では「極楽に行くと、蓮の葉の上に転生する」という信仰が有るからであるらしい。

極楽に行くとどうなるんだろう?とは私も考えた事がある。
併しまさか極楽だからって、酒池肉林の宴三昧という訳にもいくまいから、
(そうだとしたら、そんな事の為に仏教では「悪行をするな。善行を積め。奢侈に耽るな。」と教えてる事になり、可笑しな話になる。然も、酒池肉林を愉しむならホストやホステスが必要になるが、一体何処のどいつがそんな役目を引き受けるのか?)大人しくニコニコし乍ら過ごす程度の事かと思っていたのだが、そんな訳で、或る時私も「蓮の葉の上に転生」説を耳にした。
当然「なんじゃそりゃ」な感想を持った。
考えてみると変な話で、蓮の葉が有るという事は、其処は池の中であろう。人間が生活するには或る程度のスペースが必要である。すると15坪見当の蓮の葉が一世帯に一枚宛がわれるとして、そんな葉が無数に浮かぶ池なら、一体どの位の広さの池になるか見当もつかない。
必然、そんな広い池から脱出もなるまい。謂わば軟禁状態となる。

人の考える事は同じと見えて、菊池寛という文豪も「極楽」という作品の中で、同じ様な問題提起をしている。

富商の御内儀として幸せな生涯を送ったヒロイン。
寿命が尽きてあの世へ向かう其の足取りも、行く手に俟つ希望から軽やかである。
向こうに着くと、先立った亭主が蓮の葉の上に居り、御内儀の顔を見ても、「なんだ、お前も来たのか」という様な顔をしたのみで、さして嬉しそうでも無い。
初めの一年や二年(だったか?)は、御内儀が現世の話をする事で、何と無く過ごせる。其の裡、話題も尽きて、現世の話は最早二人にとって古い話題でしかなくなってしまう。
其の後の数年も、極楽の風景を眺める等して過ごした。
御内儀は言う。
「何時迄こうして座っているんでしょうね?」
亭主は苦い顔をして、
「何時迄も何時迄もじゃ。」
と返す。
「そんな事は無いでしょう?其の裡屹度また別の世界へでも行けるのでは?」
との質問に答えた亭主のセリフがいい。苦笑し乍ら、
「極楽より外に行く所があるかい!」
或る時ふと御内儀は地獄の様子はどうなんだろう?と持ちかけた。すると、日頃つまらなそうな亭主の顔が輝き、話に乗ってくる。
爾後、何十年も何百年も、地獄の話しか話題が無い状況が続いた・・。

という話である。
インドで仏教が発生し、極楽の概念が説き始められた時からこうした極楽像が考えられていたのかどうか知らないが、尠くとも日本仏教の説く極楽像に対しての菊池寛の疑問は、まさに的を射た疑問であると言えないだろうか。


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